All You Need Is Kill 桜坂洋 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)ヴァルキリー卓礫《たくれき》撃破章 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)統合|防疫《ぼうえき》軍 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)ヘンな[#「ヘンな」に傍点]物体 ------------------------------------------------------- CONTENS of All You Need Is Kill [#ここから2字下げ] 第一章 キリヤ初年兵 第二章 フェレウ軍曹 第三章 戦場の牝犬 第四章 キラー・ケージ [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第一章 Recruit Kiriya キリヤ初年兵 [#改ページ]    1  戦闘開始から十分間、兵士は恐怖に溺《おぼ》れる。  想像してみるがいい。  鋼鉄の死が飛び交う場所だ。  遠く離れた弾が奏《かな》でる音は低くにごっている。腹を揺り動かす乾いた音だ。近くをかすめる弾は高く澄んだ音を発する。頭蓋《ずがい》をびりびりと震わす金切《かなきり》り声をあげて、そいつは、ぼくに向かってくる。地面に突き刺さる。土埃《つちぼこり》をまきあげる。埃のカーテンに次の一弾が孔《あな》をあける。  空を焦がす幾千《いくせん》幾万《いくまん》のうちたった一発、指ほどの塊《かたまり》が体を通り抜けるだけでヒトは死ぬ。ついさっきまで動き、笑い、冗談を投げつけていたあいつが、次の瞬間なまあたたかい肉の塊になる。  死というやつは、唐突《とうとつ》で。あっという間で。容赦《ようしゃ》を知らない。  それでも、考える間もなく命を奪われた者は幸運である。多くの兵は、骨を砕かれ、内臓を破裂させ、体の下にでっかい血溜《ちだ》まりをつくってもだえ苦しむ。背後から死神が忍び寄り、氷の手で首を絞《し》める時を、泥の中で呼吸しながら孤独に待ちつづけるのだ。  もし、天国があるとしても、そこは冷たい場所に違いない。暗い闇《やみ》に違いない。ひとりぼっちに違いない。  ぼくは恐怖する。  ふるえる腕で、こわばった指先でトリガを絞《しぼ》り、灼熱《しゃくねつ》の銃弾をばらまいて死神を追い払う。  ヴ、ヴ、ヴ、と銃身がキックバック。心臓の鼓動《こどう》より力強いビートだ。兵士の魂《たましい》は体内にあらず。武器の中に眠る。銃身が赤熱《せきねつ》するにつれ、肉体を支配していた恐怖が怒りに変わっていく。  しみったれた航空支援でお茶を濁《にご》した司令部に。ファック!  クソみたいな作戦をたてた参謀本部に。ファック!  左翼への砲撃をケチった砲兵科に。ファック!  死んでしまったあの野郎に。ファック!  なにより、このぼくの命を狙《ねら》っているクソったれな敵に! 鋼鉄の怒りを叩《たた》きつけろ!  動くものは敵だ。  みな死んでしまえ。動かないモノになれ。  歯を噛《か》みしめた口からうなり声がもれた。  毎分四百五十発の速度で弾を送りだす二十ミリ機銃があっという間に弾切れになる。かまうものか。死体になったら弾は使えないじゃないか。マガジンを換装《かんそう》する。 「リロード!」  ぼくの叫びを聞いて援護射撃してくれる仲間はもう死んだ。電波に分解された言葉が空《むな》しく宙を駆ける。トリガを引く。  同僚のヨナバルは、敵陣から飛んできた最初の一弾をまともにくらった。敵のスピア弾がジャケットを串刺《くしざ》しにしたのだ。体を突き抜けひしゃげた鏃《やじり》の先端に、血ともオイルとも判断のつかないぬるぬるとした液体がこびりついていた。ヨナバルのジャケットは、十秒ほど不気味なダンスをし、動きを停止した。  衛生兵を呼ぶまでもなかった。胸下に直径二センチほどの空洞があり背中まで抜けていた。着弾の衝撃でめくれあがった穴の周囲は摩擦《まさつ》熱で燃えあがり、オレンジ色の炎がちろちろと躍《おど》っていた。戦闘開始の合図から一分とたっていなかった。  ことあるごとに先輩風を吹かす上に、ミステリー小説の犯人をぽろっとばらす癖《くせ》のある男だったが、死んでしまったほうがよいほど悪い人間でもなかった。  ぼくが所属する中隊——三〇一師団|装甲《そうこう》化歩兵第十二連隊第三大隊第十七中隊百四十六名はコトイウシ島の北端を固めていたのだ。兵員輸送ヘリで上陸したのち、敵陣の左翼後方に埋伏《まいふく》し、正面からの攻撃に耐えかねて脱出してくる敵個体を各個撃破するのが任務だった。  なのに。  戦う前にヨナバルは死んだ。  不意打ちだった。彼は苦しまずにあの世に行けただろうか。  気づいたときには、ぼくとぼくの所属する部隊は、戦場の中心に立っていた。敵も味方も、ぼくらに向かって弾丸を放っていた。聞こえてくる声は絶叫とすすり泣きとファック! ファック! ファック! そんな言葉だけ。ちくしょう。小隊長はすぐに死んだ。最先任の軍曹《ぐんそう》も死んだ。支援ヘリのロータ音が聞こえなくなった。通信が途絶《とぜつ》した。隊は散りぢりになった。  ぼくが生き残ったのは、ヨナバルが殺《や》られたとき伏せていたからだ。  みなが果敢《かかん》に戦っている中、ぼくは、ジャケットの残骸《ざんがい》に隠れて震えていた。兵士の全身を覆《おお》う機動ジャケットは、ジャパンが世界に誇る複合装甲板でできている。一枚では無理でも、それが二枚あれば敵弾が貫通しないんじゃないかとぼくは姑息《こそく》にも考えた。敵の姿を見ないで隠れていれば、いつの間にかいなくなってくれるかと期待した。そうとも。ビビっていたのだ。  ぼくは、訓練校を出たばかりの初年兵である。機銃やパイルの撃ちかたは知っていても、どうすればうまくやれるかを知らない。  誰がやろうと、トリガを引けば弾は飛んでいく。バン! しかし、いつ撃てば敵に命中するのか、どこに撃てば包囲を抜けだせるのか、戦場に関する知識がぼくには絶望的に足りないのだった。  またひとつ、敵弾が頭上を駆け抜けた。  口の中に血の味がする。  鉄の味。まだ、ぼくが生きていることを証明する味だ。  グローブの下でてのひらがぬめる。バッテリーがかろうじて生きていることを知らせるジャケットの振動。機械油の臭《にお》い。いかれかけたフィルタ越しに外の臭気《しゅうき》が侵入してきている。敵の死骸《しがい》が発する臭気は、葉っぱを揉《も》みほぐしたときの臭いに似ている。  さっきからずっと、腹より下の感覚がない。痛かったはずの傷口が痛まない。それがいいことか悪いことなのかはわからない。苦痛は生命の証《あかし》だそうだ。ジャケットの中に漏《も》らしている小便のことを気にしなくていいのは助かるが。  燃料気化グレネード弾の残りはゼロ。二十ミリ機銃の残弾が三十六。五秒でマガジンは空《から》になる。一人の兵士に三発ずつ支給されたロケットランチャは、撃つ前にどこかへ行ってしまった。頭部補助カメラが大破、左腕装甲半壊、フルスロットル状態で戦闘出力の四十二パーセント。左肩のパイルドライバが折れずに残っているのが奇跡だった。  パイルドライバは、タングステンカーバイドの杭《パイル》を炸薬《さくやく》で撃ちだす近接兵器だ。敵に張り手をかませる距離になったときだけ使用する。炸薬の詰まった薬莢《やっきょう》は、ひとつひとつが成人男子の拳《こぶし》ほどある。九十度の角度で撃ちこんだこいつを防げる物質は、戦車の前面装甲以外に存在しない。ドライバマガジンの装弾数は二十で、最初に数字を聞いたとき、戦場で二十回も白兵《はくへい》を使わねばならない局面になったらそいつは絶対死んでいると思っていたけれど案外そうでもないらしい。  残りの弾数は、四。  十六発ぶっ放して、おそらく、十五回はずした。  十六回かもしれない。  破損した|ヘッドアップディスプレイ《HUD》画像がゆがんでいた。ゆがみは死角だ。敵が隠れていてもわからない。  ジャケットに慣れれば、補助カメラを使わなくとも周囲でなにが起こっているかわかるという。戦闘に必要なのは視覚だけではない。金属とセラミックの積層構造をくぐり抜け肉体を揺らす衝撃。トリガのひっかかり具合。足の裏から伝わる感覚。計器に表示された数字の群れを読みとり、歴戦の兵《つわもの》は戦況を把握《はあく》する。  だが、ぼくはわからない。  戦場に来たばかりの初年兵はなにひとつ知らない。  息を吐く。  息を吸う。  蒸れた汗《あせ》の臭いがした。イヤな臭いだ。垂《た》れ流しの鼻水を拭《ぬぐ》いたい。  ディスプレイ脇《わき》の時計を確認。戦闘開始から六十一分が経過。  なんてこった。三カ月ぶっ続けで戦っている気がするのに。  前後左右を見まわす。  グローブの中でてのひらを握りしめた。必要以上に力をこめるな。自分に言い聞かす。着弾が下にずれるぞ。  影が視界をよぎる。  ドップラーレーダーを確認するヒマがない。  とりあえず、撃った。  ぱぱぱっと土煙があがった。  敵が放った弾は大気を切り裂いて飛んでくるのに、自分が発射した弾は超能力でも使ったかのように照準の先がはじける。銃とはそういうものだと訓練校の教官は言っていたけれど。向かってくる弾丸の擦過音《さっかおん》を敵が聞いていないとしたら不公平だとぼくは思う。敵もぼくらも、死神の息吹《いぶき》を身近に感じて銃弾をかいくぐるのが平等ってものじゃないか?  生命の終わりをもたらす叫び声を聞いたとして、ヒトならぬ敵がヒトと同じ恐怖心を抱くとはかぎらないが。  統合|防疫《ぼうえき》軍の敵はバケモノだ。  人類は、それを、ギタイ、と呼んでいる。  どう呼ぼうと、敵は敵だ。死ね。  弾が尽《つ》きた。  薄茶色のもやの中にいびつな球形をしたシルエットが現れる。  高さは人間より小さい。ジャケット兵の肩くらいだ。ヒトが垂直に立てた棒だとすれば、ギタイの外形は樽《たる》である。それに、合計四本の短い手足と一本の尻尾がついている。ぶくぶくに膨らんだカエルの溺死体が立ちあがった格好だと、ぼくらはいつも言っている。生物学的にはカエルよりヒトデに近いそうだが。  奴等《やつら》は、ヒトより的《まと》が小さく、ゆえに攻撃を当てにくく、それでいて人間より重量がある。アメリカ人がバーボン造《づく》りに使うバカでかい樽に水で湿らせた砂を目一杯詰めこめば、奴等とだいたい同じ重さだ。体の七割を水分で構成している哺乳《ほにゅう》動物では追いつくことができない密度なのだ。短い腕でひと薙《な》ぎされただけでヒトの体はたやすく千切《ちぎ》れ飛ぶ。噴出孔と呼ばれる穴から射出するスピア弾は、四十ミリ機関砲と同等の威力《いりょく》がある。  機械の力によって筋力を増大させる機動ジャケットに潜り込み、最先端の科学がつくりだした武装でハリネズミのように身を固め、至近《しきん》距離でショットガンをぶっぱなしても傷ひとつつかない装甲に守られてぼくらはギタイと対峙《たいじ》する。それでも、奴等のほうがはてしなく強い。  ギタイを前にしたとき、熊《くま》に遭遇《そうぐう》したり虎《とら》に睨《にら》まれたりなどという生理的な恐怖は感じない。ギタイは吠《ほ》えない。ギタイは怖い顔をしない。ギタイは翼を広げて大きさを誇示しない。ただ機械的にヒトを狩る。そのときぼくが感じたのは、直進してくるダンプカーのタイヤを道路の中央で待ち受ける野良《のら》ネコになったような、そんな感覚だった。なぜぼくがこんな目にあわねばならないか理解できなかった。  もう弾はない。  母さん、ぼくは死ぬ。  クソったれなこの戦場で。仲間も友人も家族も恋人もいない、さいはての島で。苦痛と、恐怖と、自分が漏らしたクソにまみれながら。ぼくめがけて疾走《しっそう》する敵の前で唯一《ゆいいつ》残った武器を構えることもできず。弾丸とともに戦う力を吐きつくしてしまったかのように。  ギタイが迫る。  死神の息吹が耳元に。  死神の姿がHUDに。  見えた。  死神は全身を赤に染めていた。二メートルはあるかという巨大な鎌《かま》も真っ赤だった。鎌というよりは戦斧《バトルアクス》に近い形状だ。敵も味方も埃色の迷彩《めいさい》塗装をしている中で、そいつは、ガンメタリックレッドの輝きを四方にまき散らしていた。  ギタイを凌《しの》ぐスピードで死神は突進。深紅《しんく》の脚《あし》がぼくを蹴《け》り飛ばす。  装甲がひしゃげる。息が詰まる。天地が逆になる。ディスプレイのアラート表示が半分くらいまとめて赤くなる。口から吹きだした血反吐《ちへど》がそれらすべてを覆いつくす。パイルドライバが暴発する。  ぼくは十メートル以上ふっとんだ。背中の装甲板がガリガリと地表を削《けず》りとる。逆さのまま停止した。  死神がバトルアクスをひと振り。  斬《き》れないものを無理矢理断ち切る金切り音。  急ブレーキをかけた列車の残響に似ている。  ギタイの棘皮《きょくひ》がはね飛んだ。  一撃だ。  ただの一撃で、ギタイは動かぬモノと化した。切断面から灰色の砂が散る。まっぷたつになった体が、それぞれ別個にびくびくと痙攣《けいれん》する。人類の叡知《えいち》を込めた最新の武器でやっと傷つく敵を、そいつは、千年も昔の蛮族《ばんぞく》が使っていたようなバトルアクスで易々《やすやす》と屠《ほふ》ったのだった。  死神はゆっくりと振り返った。  アラートだらけのディスプレイに、ぽつんとひとつ、緑色の光が点灯する。味方からの通信を意味するアイコンだ。 「……ったのだが……のか?」  女の声だった。  雑音まじりでよく聞きとれない。  ぼくは立ちあがれなかった。ガタがきた肉体とジャケットは、逆さになった体勢を元に戻すのが精一杯だ。  よくよく見れば、そいつは冥界《めいかい》の使いなどではなく、ぼくと同じジャケット兵だった。違っているのは、パイルドライバを装備する代わりに武骨なバトルアクスを持っていること。肩の徽章《きしょう》がJPではなくUSになっていること。通常のジャケットは砂地にコーヒーをこぼしたような砂漠迷彩で擬装《ぎそう》してあるのに、そいつの装甲は鮮烈なガンメタリックレッドに輝いていることだ。  噂《うわさ》は知っていた。  戦場の牝犬《ビッチ》。  戦いを求めて世界を駆け巡《めぐ》るウォージャンキー。人類が殺したギタイの約半数は、その女が所属する統合防疫軍US特殊部隊の戦果だという話も聞く。攻撃してくれとでも言いたげな格好で戦い生き残ってきたのなら、そいつは、あるいは、本当の死神と言えるのか。  バトルアクスを抱えたまま、深紅のジャケットはぼくに歩み寄った。肩の部分に手をあててジャックを探りあてる。接触通信だ。 「ひとつ聞きたいことがある」  女の声がクリアに聞こえた。たったいま目の前で起きた戦闘と二メートルのバトルアクスからは想像できない、甲高《かんだか》い声だった。 「ジャパンのレストランでは食後のグリーン・ティーは無料だと本に書いてあったのだが……本当なのか?」  ギタイの体からこぼれた伝導流砂が風に舞う。しみったれた泣き声をあげて、遠く弾丸が飛んでいる。  ここは戦場だった。  ヨナバルもユゲ隊長も小隊の仲間は全員くたばって、鋼鉄の弾丸をありったけばらまき、ジャケットの中に糞尿《ふんにょう》を垂れ流して、血と泥が混じりあった沼の中を這《は》いずりまわった場所だ。 「本に書いてあったことを鵜飲《うの》みにしてひどい目にあったことがある。それからは現地の人間に聞くことにしているのだ」  なのに、この女は、道端で会った隣人と世間《せけん》話をするような口調で話すのだった。  人がクソにまみれて死にそうになっているときに、食後のグリーン・ティー? イキナリ人に蹴りをくれておいてグリーン・ティー? なにを考えているんだコイツは。ぼくは罵声《ばせい》で答えようとしたが、言葉が出なかった。頭ではおぼえている言葉の使いかたを口が忘れてしまっていた。発音した罵詈雑言《ばりぞうごん》が喉《のど》で空回りしている。 「小説というのは、知りもしないことを見てきたことのように書くものだそうだ。まあ、それを教えてくれたのは戦争小説を書いている作家なのだがところで唾《つば》を飲みこめ。トリガから指を離せ。深呼吸しろ」  言われたとおりにした。頭にのぼった血が、首の下まで時間をかけて落ちていく。女の言葉は、なぜか、ぼくを落ちつかせる効力をもっていた。  ずっと忘れていた腹の痛みが戻ってくる。筋肉の痙攣を操作信号として拾ったジャケットががくがくと振動する。死ぬ直前、ヨナバルが踊ったダンスに似ていた。 「痛いか?」 「あ……あたりまえじゃないか」  しぼり出した声が、ささやきのようにちいさくかすれている。  深紅のジャケットは、ぼくの前に膝《ひざ》をついて、削れた腹の装甲板をしげしげと見ている。ぼくは質問を発した。 「戦況を知ってるか?」 「三〇一師団は壊滅状態だ。主力は海岸線まで下がって戦力を立てなおしている」 「あんたの部隊も?」 「奴等は心配するだけ無駄な連中だ」 「で……ぼくのほうは……どうだ……?」 「貫通して背中の装甲で止まっている。中は炭だ」 「ひどいか」 「ひどいな」 「ちくしょう」  ぼくは空を見上げた。 「おまけに、空が……きれいときてやがる」 「そうだな。この国の空が自分は好きだ」 「なんでだよ」 「海に囲まれた国の空は澄んだいい色をしている」 「ぼくは、死ぬのかな?」 「そうだ。おまえは死ぬ」  涙がでた。  中を見通すことができないヘルメットで顔が覆われていることをぼくは感謝した。情けない表情を他人に見せずにすんだから。  深紅のジャケットは、そんなぼくの頭をやさしく抱きかかえる。 「名前を言えるか? 階級や所属じゃない。おまえの名だ」 「ケイジ……キリヤ・ケイジ」 「自分の名はリタ・ヴラタスキ。おまえが死ぬまで、そばにいよう」  女は言った。なによりもうれしかったその言葉に、しかし、ヘソ曲がりなぼくの口は強がってみせる。 「あんたも死ぬぞ」 「ここに用があるのだ。ケイジ、おまえが死んだら、おまえのジャケットからバッテリーをもらう」 「ひでえヤツだ」 「だから、遠慮《えんりょ》することはない。安心してあの世へ行け」  そのとき、リタへの通信が入った。今度は男の声だ。彼女とリンクしているぼくにも自動的に聞こえた。 「チーフ・ブリーダよりカラミティー・ドッグへ」 「聞こえている」  リタは短く答える。 「サーバ・アルファ周囲の制圧に成功。制圧維持リミットは十三分。ピザのデリバリーを受けとれ」 「カラミティー・ドッグ、了解。以降、通信を封鎖《ふうさ》する」  深紅のジャケットは立ちあがった。接触通信が途絶する。  彼女の背後でくぐもった爆発音。地鳴りに背骨が震えた。  天空から飛来したレーザー誘導爆弾が地中に突っ込み、岩盤を掘り進んで爆発したのだ。白っぽい砂地が焼きすぎたホットケーキのように膨れあがり、ひび割れから黒蜜と同じ色の土くれが吹きだす。地面がぐらぐらと揺れる。泥の雨がジャケットの装甲を叩く。リタのバトルアクスが光を散らす。  煙が晴れた。  爆弾がつくった巨大なクレータの中に蠢《うごめ》く物体が見えた。ドップラーレーダに赤い光点が映しだされる。敵だ。数が多すぎて、点と点が重なって見える。  彼女はうなずいたようだ。  突入した。  斬る。斬る。ひるがえって、斬る。バトルアクスがひらめくごとにギタイの棘皮がはじけ飛ぶ。切断面からあふれた伝導流砂がつむじ風にのってくるくると躍る。ナイフでバターを切るように、彼女はたやすく敵を屠殺《とさつ》した。ぼくを守って、リタは円を描きながら移動する。  彼女とぼくは同じ訓練を受けた兵士なのに、ぼくは電池の切れた玩具みたいに横たわり、リタはバトルアクスを振り回して戦っている。誰に強制されたわけでもなく自分の意思でやってきたクソったれな戦場で、ぼくはなんの役にも立っていないのだった。勝手にくたばればよいものを、助けにきてくれた友軍を危険に晒《さら》してさえいる。  残り三発のパイルドライバを撃ち尽くさねば、死ねないと思った。  片膝を立てる。  膝に手をつく。  立ちあがった。  ぼくは叫んだ。  がむしゃらに突き進む。  深紅のジャケットが振り返る。  ヘッドフォンから雑音が聞こえた。  リタがなにを言っているのかはわからなかった。  群れの中に一体だけ異質なギタイがいた。どこが違うというわけではない。外見はどこも変わらないカエルの溺死体だ。ただ、雰囲気《ふんいき》が他の個体と違うのだ。生死の境で極限まで研《と》ぎ澄まされたぼくの感覚が、相討《あいう》ちすべき敵を見抜いたのかもしれない。そいつに決めた。  ギタイに跳《と》びつく。  尻尾が襲ってきた。  体が軽くなった。腕が切り落とされた。右腕でよかった。パイルドライバは左肩についている。  トリガを引く。  はじいた。  角度は九十度だ。  もう一度。  棘皮に穴。  もう一度。  意識が消滅した。    2  読みかけのペーパーバックが枕元に置いてあった。  オリエント通《つう》を気取るアメリカ人探偵が主人公のミステリー小説である。事件の関係者がニューヨークの和風レストランに集まった場面にひとさし指がはさまっている。  イタリア人クライアントが食後のエスプレッソを頼もうとすると、探偵が、ジャパンのレストランでは食後にグリーン・ティーが出てくるから頼まなくていいと蘊蓄をたれる。そのあと、ソイソースにはグリーン・ティーが合うだのインディアン・ミルクティーにはなぜスパイスを入れるかだの、犯人を明かすと関係者を集めているくせに関係ない話を延々《えんえん》とするのだった。  ぼくは目をこすった。  シャツの上から腹をなでてみる。半年前にはなかった腹筋《ふっきん》のラインがある。傷はない。炭にもなっていない。右腕もちゃんとついている。ほっとした。  つまり、こんな小説を読みながら寝たせいで夢見が悪かったと、そういうことなのだった。  基地外リタ電波スキーがミステリー小説の内容を聞いてきた時点で夢と気づくべきだった。パシフィック・オーシャンを横断してわざわざ戦争にやってきたUS特殊部隊員が、ベストセラーのミステリーなぞ読むはずがない。そんなヒマがあったら奴等《やつら》は機動ジャケットの手入れをしている。  胸クソ悪い。  初出撃の日だというのに。戦場に行く前に夢の中で二階級特進していたら世話はないじゃないか。  せまっちい二段ベッドの上段で、低音が割れたラジオ音楽が鳴っていた。古いふるいロック・ミュージックだった。活動をはじめた基地の騒音と、ほうぼうでしゃべくっている野郎どもの声を貫いて、やけにハイテンションなDJのアニメチックな声が聞こえる。頭の裏側にきんきんと響くその声は脳天気な調子で天気予報を読みあげていた。昨日に引きつづき今日の諸島方面は快晴。午後から紫外線注意報。日焼けのしすぎに気をつけて、だそうだ。  不燃材を組みたてただけのシンプルな兵舎の壁には、小麦色の肌《はだ》をした水着ギャルのポスターが貼《は》ってある。誰がやったのか、顔の部分が破られて、軍報から切り抜いた首相の顔が代わりに貼りつけてあった。水着ギャルの顔は、すこし離れた場所でポージングするマッチョ男のポスターで笑みをふりまいている。マッチョ男の顔は現在|行方《ゆくえ》不明だ。  ずらりと連なったベッドの下段でぼくは伸びをする。スチールパイプを溶接したヘビーデューティーな骨組みがぎしぎしときしんだ。 「ケイジ。これ、サインな」  上段からヨナバルが首をのぞかせた。夢の中の戦場でぼくがまっさきに殺してしまった男である。まあ、夢で死ぬ奴に限って長生きするというが。  ヨナバル・ジンはぼくより三年早く入隊したジャケット兵である。彼の体は、ぼくより三年分の贅肉《ぜいにく》が削《そ》ぎ落ち、三年分の筋肉がついている。普通に社会で暮らしていれば軽薄さをぎゅっと丸めて焼きおにぎりにしたような優男《やさおとこ》だったろうが、いまは精悍《せいかん》というか、まあとにかくそれなりにソルジャっぽい風貌《ふうぼう》だ。 「なんですか?」 「宣誓《せんせい》書だ。前に説明したやつ」 「昨日サインしましたよ」 「あれ。おかしいな」  上段でごそごそと音がした。 「ない。ないぞ。まあいいや、もう一度書いてくれ」 「悪用しないでしょうね」 「どうせ使うのはおまえさんに死体袋が支給されたときだ。悪用のしようがねえ。二度も三度も死ぬってんなら別だがな」  統合|防疫《ぼうえき》軍の前線基地にはひとつの伝統があった。出撃前の余興《よきょう》として、酒保《PX》に忍びこんで酒をちょろまかすのである。死んでしまったら酒を楽しむことはできない。どうせ明日の我が身は戦場だ。血管に残ったアセトアルデヒドだって薬物注射で強制的に分解されてしまうのだ。  盗みがばれれば懲罰《ちょうばつ》委員会、下手すれば軍法会議だが、物資が減っているのがわかるのは作戦が終了して基地に帰ったあとだ。作戦では戦死者がかならず出る。戦死者の罪は厳《きび》しく追及されない。ばれたら、戦死した人間のせいにすればいい。そのために、盗みは自分が計画したという念書を全員が残しておくのだった。  盗まれるほうもわかっているので、ちょろまかされてもいい酒を置いてあるという話だ。だったら出撃前の景気づけに兵士全員に酒を配ればいいと思うが、むかしからそうなっているらしい。 「緊張感ないなあ」  ぼくは紙を受けとった。 「いまから緊張してたら本番前まで保《も》たねえよ」 「午後にはジャケット装着して匍匐《ほふく》前進してるんですよ」 「ずっと着てるつもりなのか? もの好きだな」 「今日着ないでいつ着るんですか」 「だっておまえ、出撃は明日じゃんか」  ぼくはベッドを転がり落ちた。となりのベッドに寝転がってエロ雑誌を眺《なが》めていた隊の男と一瞬視線を交差させたあと、ヨナバルはぼくの顔を凝視《ぎょうし》した。 「……なんだよ血相《けっそう》変えて」 「作戦、延期になったんですか?」 「なってねえ。ハナっから明日だ。かっぱらった酒で|一九〇〇《ヒトキュウマルマル》に秘密演習、浴びるほど飲んだら明日は地獄の一丁目。全部予定通りじゃねえか」  PXから盗みだした酒で大騒ぎをしたのは昨日のことだ。初出撃の緊張で飲むような気分じゃなかったぼくは、早々に引きあげてミステリー小説のページをめくっていた。女性兵士とよろしくやったあとぐでんぐでんになって帰ってきたヨナバルをベッドの上段に押しあげてやったこともおぼえている。  それとも。  それも、夢の中のことだったのか。  ベッドに置いてあるミステリー小説をぼくは手にとった。ヒマがあったら読んでやろうと持ってきたものの、フォーメーション訓練と使いっ走りに時間をとられてバッグの奥にしまいこんであったものである。出撃前日にやっと読む機会がくるなんて皮肉なことだと、そのときぼくは苦笑したはずだ。  ページをめくる。  たしかに読んだことがある。オリエント通を気取るアメリカ人探偵は、ぼくの記憶どおり、グリーン・ティーに関する蘊蓄を披露《ひろう》している。  ——今日が出撃前日だとしたら、その日に読んだ内容はいつどこでぼくの脳に湧《わ》いて出たのか?  わけがわからなくなった。 「まあ、アレだ。作戦なんてテキトーかましてりゃいいんだ」 「そんなものでしょうか」 「おまえさんは、味方の背中を撃たずに生きて帰ってくりゃそれだけで八十点。あんまり気に病《や》むなよ」 「……はあ」 「悩みすぎると、命をなくす前に宇宙の怪電波で頭をやられっちまうぞ」  ヨナバルは、指で鉄砲の形をつくり、頭の横にあてがう仕草《しぐさ》をした。  ぼくの前任者は頭をおかしくして後方に送られている。なんでも、人類は滅亡するという電波を受信するようになってしまったらしい。統合防疫軍のジャケット兵がよりにもよって人類滅亡の電波を受けとるのは具合が悪い。戦死するほどの率ではないが、そういう兵士も中にはいるという話だ。  戦場というやつは、健全な肉体にも健全な精神にも等しく有害である。前線基地にやってきただけで幻覚を見ているようだと、ぼくの脳にも危険信号が灯《とも》っていたりするのかもしれなかった。 「……もっとも、戦場にいておかしくならない奴のほうが、頭のネジが何本か抜けてんだけどな。おれに言わせりゃ」  ヨナバルはうそぶいた。 「新人をおどかさないでください」 「フェレウのおっさん見てりゃわかるじゃねえか。生き残るためにはよ、人間として大切ななにかを失わなきゃなんないわけよ。おれみたいに繊細《せんさい》で高尚《こうしょう》な人間は戦場に向いてないんだな悲しいことに」 「軍曹《ぐんそう》はいい人ですよ」 「いい悪いじゃねえ。心臓がタングステンでできてんじゃねえかとか、僧帽筋《そうぼうきん》の鍛《きた》えすぎで脳の容量が減っちまってるとか、そういうことだ」 「そんなこと言ったら悪いです」 「じゃあ、電波スキーも同じ人間だって言い切れるか?」 「いやまあそれは……」  いつものようにああでもないこうでもないと、ふたりでリタの陰口《かげぐち》を叩《たた》こうとしていたところに軍曹がやってきた。  バルトロメ・フェレウは小隊の最先任軍曹だ。長いこと戦場で生き残ってきた古兵《ふるつわもの》であり、実質的に部隊をまとめている人物でもある。フェレウを構成する要素のうち七十パーセントが面倒見《めんどうみ》のいいおっさんで、二十パーセントが手に負えないトレーニングハイの軍人、残り十パーセントの成分が鉄とカーボンだと言われている。  しかめっつらでぼくらを見まわしたあと、念書をたばねているヨナバルにフェレウは一層顔をしかめてみせた。 「PXに忍びこんだのはおめえだな?」 「そっすよ」  ヨナバルは平然と答えた。  周囲のベッドに寝転んで好き勝手なことをしていた男どもは、殺虫剤のボトルを偶然見つけてしまった不運なゴキブリと同じ速度で、すばやく布団の中へと退避している。この顔をした軍曹は悪い知らせしか運んでこないことを皆知っているのだ。 「もしかして……警備で問題が起きたんですか?」  眉間《みけん》に増加|装甲《そうこう》をつけたみたいに顔を歪《ゆが》めているフェレウにぼくは質問を投げつけた。夢の中でも同じことがあったのだ。ヨナバルたちがPXに忍びこんだとき、運が悪いことに他でも事件が起きていて、本来は作戦終了後に発覚する予定の盗みがばれてしまうのである。 「なんでおめえが知ってんだ?」 「いえ、なんとなく……ですけど」 「なんすか?」 「おめえらに関係ないとこでヘマやったブタのケツがいる。おめえらが悪いわけじゃねえが、|〇九〇〇《マルキュウマルマル》、第一臨海演習場に第四装備で集合だ。グズどもに伝えろ」 「ちょ、ちょっと冗談キツいっすよ。明日出撃なのに基礎訓練《PT》なんすか?」 「ヨナバル伍長《ごちょう》、復唱」 「|〇九〇〇《マルキュウマルマル》、第一臨海演習場に第四装備で集合します……でも軍曹、グルジア強襲《きょうしゅう》作戦なんて毎度のことなのに。なんでいまさら文句言われなきゃなんねえんすか」 「……知りてえか?」  フェレウはぎょろ目を剥《む》く。ぼくは唾《つば》を飲みこんだ。 「トーゼンじゃないすか。いくらなんでもムチャクチャっす」 「てめえで調べやがれ」 「ちょ、ちょっと軍曹!」  正確な歩調で三歩進んで、フェレウは止まった。  スチールパイプと念書の束を遮蔽物《しゃへいぶつ》にしつつ、ヨナバルは抗議の声を発射する。 「ヒントヒントー、ぶーぶー」 「この基地の腐れ警備体制はどうなってんだとお抜かしになりやがったのはおそれ多くも少将だ。おれどころか中隊長でもどうにもならねえ。あきらめろ」 「まさか思い出づくりさせようってんじゃないでしょうね」 「出撃前日に人をつきあわせたりするかアホ」  事件の顛末《てんまつ》をぼくは知っていた。これも、夢の中であったことだ。  一年半前のオキナワ上陸戦で大敗を喫《きっ》してから敗戦つづきの統合防疫軍JPにとって、ボーソー半島沖合いに浮かぶコトイウシ島の奪回は絶対条件である。この島に侵略拠点を築かれたらトーキョーは目と鼻の先だ。皇居と政府機関がナガノに移ったといっても、経済の中心はいまだにトーキョーにある。  今度の作戦の成否がジャパンの生命線だということは幕僚《ばくりょう》監部もわかっていて、二万五千人のジャケット兵に加え、気合いが入りすぎた将官がぞろぞろと、ここ、ボーソー半島のフラワーライン前線基地に集まっている。それだけでなく、オキナワでは断ったUS特殊部隊の作戦参加をこちら側から打診したのだ。  トーキョーが砂漠になろうとアメ公は知ったこっちゃなかろうが、世界一軽くて強固な複合装甲板を生産する臨海工業地帯がギタイに蹂躙《じゅうりん》されるのはまずい。部品の七割はチャイナの工場で生産されているものの、人類の叡知《えいち》の結晶である機動ジャケットにはまだまだジャパンの技術が必要なのだった。そういう理由でUSの連中はやってきた。  他国の部隊が加わったことにより、警備はいつもより厳しくなった。警備と示し合わせてみんなで仲良くちょろまかしている備品にも運悪くチェックが入り、事情を知らない将官はそれを聞いて大いに憤慨《ふんがい》した……というわけだ。 「ついてねえなあ。ったく誰だヘマこいた奴あ」 「原因はウチじゃねえ。鉄面女王の部隊はUSの虎《とら》の子だからな、処女が夜道歩くみてえにピリピリしやがってよ」 「はああ……」  ヨナバルは大げさに息を吐いた。 「あ、痛たたたた、急に腹痛が! 軍曹! 痛いであります! 盲腸《もうちょう》かも、いや、こないだの演習でしたケガに破傷風《はしょうふう》菌が入ったのかもうんそうだそうに決まっている大変だ!」 「日が暮れるまで終わらねえつもりで水分補給しとけ。疲れを明日に引きずるな」 「痛い痛い痛い。うわあああ——」 「キリヤ。いいか、水だ。忘れるなよ」 「は、はい」  ベッドの上で仮病を演じるヨナバルを完全に無視して、フェレウは兵営を出ていった。 「いたい……ちっ。食えねえおっさんだよまったく。フジ山麓《さんろく》かなんかで冗談のセンスを落としちまったに違いねえや。ああいう中年には金輪際《こんりんざい》なりたくないね。おまえさんもそう思うだろ?」 「はあ」 「ああ、厄日《やくび》だ厄日だ厄日だクソクソクソクソ。なんかいいことねえかなあ」  記憶どおりの展開になった。  このあと、装甲化歩兵第十七中隊は延々三時間のあいだPTをする。へとへとになったぼくらの前で、ぴかぴかの勲章《くんしょう》をつけた少佐がさらに三十分説教をたれてやっと解散だ。ジャケットを着ていたら、筋力強化された指先でキサマのケツの毛を全部むしってやると呪《のろ》ったことも鮮明におぼえている。  記憶の中のぼくはふたりの会話には加わっていなかったけれど、起きることはほとんど一緒だった。  ぼくは思う。  今朝方見たのは、本当に夢なのだろうか。    3  前支《まえささ》えというものがある。  腕立て伏せの上げたままの状態でじっとしている体勢だ。  簡単なように見えてこれが意外にキツい。腕や腹筋《ふっきん》がしびれるだけでなく、だんだん時間の感覚を失っていくのだ。頭の中で柵《さく》を跳《と》びこす羊《ひつじ》の数が千を超えるくらいになると、頼むから腕立て伏せをさせてくれという気分が押し寄せてくる。二本の腕は棒じゃない。関節と筋肉がついているのは曲げ伸ばしするためだ。曲げたり伸ばしたり、曲げたり伸ばしたり、さぞかし楽しいだろうなあ。えいくそ。余計なことを考えると気が滅入《めい》るぞ。おまえは棒だ、棒になるのだ。まっすぐな棒になるのだ。  もともと、ジャケット兵に筋力はあまり必要ない。その人物の握力が三十キロだろうと七十キロだろうと、機動ジャケット装着者は最大三百七十キロの握力で物をつかむことができる。  ジャケット兵には、ある姿勢のまま筋肉を動かさずにいることや持久力などがより重要である。  それで前支えだ。空気|椅子《いす》なんかもやることがある。  一説によると、前支えというのは、ビンタや鉄拳《てっけん》制裁が禁止されていた旧自衛隊の懲罰《ちょうばつ》手段だったという。ぼくが生まれる前に防疫《ぼうえき》軍に統合された自衛隊の風習なんぞが装甲《そうこう》化歩兵部隊に残っているとは思えないけれど。ともかく、考えだした奴《やつ》はいますぐ死んでしまうがいい。 「きゅーじゅはち!」 「キュージュハチッ!」 「きゅーじゅきゅー!」 「キュージュキューッ!」  中隊付き准尉《じゅんい》が数える声に合わせ、ぼくらは、地面に向かってヤケクソ気味の大声でがなりたてる。  汗《あせ》が目に入った。 「はっぴゃく!」 「ハッピャク!」  ファッキュー!  強い日射しが輪郭《りんかく》のはっきりした影を描きだしていた。バカみたいに高い空で隊旗《たいき》がばたばたはためいていた。臨海演習場に吹く風は潮《しお》くさく、海のぬめりをねっとりと肌《はだ》に残していく。  だだっぴろい演習場の真ん中で、装甲化歩兵第十七中隊百四十一名が前支えの姿勢で固まっていた。三人の小隊長は、各小隊の前で不動の姿勢で立っている。幕舎《テント》がつくりだす影《かげ》のもとでは、渋い顔の中隊長がぼくらを眺《なが》めていた。その横に座っているのが参謀《さんぼう》本部付の少佐である。お余計なことをお言いだしになりやがった当の少将ドノは、いまごろクーラーの利いた執務室でグリーン・ティーでも飲んでいるのだろう。クソったれ。  少将は雲の上の存在である。ぼくより偉いヨナバルより偉いフェレウより偉い小隊長より偉い中隊長より偉い大隊長より偉い連隊長と同格のフラワーラインを統《す》べる神であるところの基地司令のそのまた上に鎮座《ちんざ》しているのが少将ということになる。あまりに上すぎて、かえってリアリティーがない。  少将ともなれば、酒もちょろまかさないし早寝早起きだし寝る前にちゃんと歯を磨《みが》くしヒゲの手入れも欠かさない。死ぬかもしれない戦場に行く前日だって明鏡止水《めいきょうしすい》の心でどっしりと構えているのだろう。けっ。ナガノで作戦立案だけしてりゃあいいものを、前線基地で余計な世話を焼きやがって。こっちにはこっちのルールがあるってんだ。もしもノコノコ戦場に来やがったら流れ弾で戦死《KIA》にしてやる……などと、心の中を覗《のぞ》かれたら銃殺ものの考えがぼくの脳裏《のうり》をよぎった。  拷問《ごうもん》プレイの観衆は少佐だけではなかった。  一番喜んでいるのは第四中隊の連中だ。ぼくらの中隊と第四中隊は仲が悪い。ラグビーの対抗試合で三十点も差をつけて勝ったことがあるためである。自分たちだって今晩飲む酒だというのに他人事のような顔ではやしたてている。まったくひどい奴等《やつら》だ。おまえたちがコトイウシ島上陸で窮地《きゅうち》におちいっても助けてやらないぞ。  US特殊部隊の連中や、彼らにひっついてやってきた戦争ジャーナリストらしき男も、アホな格好《かっこう》をしたぼくらを遠巻きに観察していた。前支えが彼らにはめずらしいのか、太い腕で指さして笑ったりしている。潮風に乗って野郎どものがなり声が聞こえてくる。これだけ距離が離れていてもうるさい。至近《しきん》距離に風船が置いてあったら振動で割れるぞこれは。あ、カメラなんか構えるな。撮るな。クソったれ、おまえもKIA候補だ。おぼえとけ。  疲労と苦痛が全身を蝕《むしば》む。  かったるい。  ぼくは退屈していたのだった。夢の中の出来事とはいえ、この基礎訓練《PT》を受けるのは二度めなのである。しかも前支えだ。動くこともできない。苦痛の中でこそ楽しいことを積極的に発見せよという訓練校教官の教えを思いだし、ぼくは、頭を動かさぬまま周囲に視線を配る。  通行バスを首から下げたアメリカ人ジャーナリストがばちばちと写真を撮っている。筋骨たくましい男だ。大男が多いUS特殊部隊と並んで遜色《そんしょく》がない。ぼくよりもよほど戦争に向いていそうだ。  US特殊部隊の雰囲気《ふんいき》はフェレウ軍曹《ぐんそう》に似ていた。プレッシャーや苦痛を友とし、すぐそばまでやってきた危険に、やあよくきたな、と笑って声をかけられる男たちである。初年兵のぼくには真似《まね》できない。  そんな野郎どもの中に、ひとりだけ異彩を放つ女性がいた。  特殊部隊の連中からすこし離れたところで、女はひとり、ぽつんと立っている。ちいさな女だ。無駄にでかい連中が揃《そろ》ったUS特殊部隊と並ぶと遠近感が狂って見える。 『赤毛のアン戦場へ行く』  そんなタイトルが頭に浮かんだ。  モンゴメリがトチ狂って、機関銃を小脇《こわき》に抱えたアンが第一次世界大戦の戦場を駆けめぐる外伝を書いてしまったような、そんな印象だ。  女の髪は赤茶けた鉄錆《てつさび》の色だった。燃えるとか血のようとか、勇ましい感覚をおこさせる色ではなかった。砂色のシャツを着ていなかったら、基地見学に来てうろちょろしているうちに迷ってしまった学生とまちがえてもおかしくなかった。  中世の平民階級が王侯貴族にそうしていたように、ごつい野郎どもは、自分たちの胸くらいしか背のない女を遠巻きにしている。  ピンときた。  あれがリタなのか。  そうだ。そうに違いない。そうでなければ、あれほどジャケット兵らしからぬ女がUS部隊と一緒にいる理由がない。通常の女性ジャケット兵ときたら、ゴリラと人間の混血かと思うような奴ばかりだ。そういう連中でなければ、最前線で戦う装甲化歩兵部隊ではやっていけないのである。  リタ・ヴラタスキは世界で一番有名な軍人だ。  ぼくが統合防疫軍に志願するときには、天才コマンド出現! とか、戦女神《ヴァルキリー》の化身《けしん》現る! とかいった文字がネットニュースの見出しを毎日のように飾っていた。リタを主人公にしたムービーをハリウッドがつくるという話もあったみたいだが、公開前に入隊してしまったので見ていない。  彼女が所属するUS特殊部隊が参加した戦闘で撃破したギタイの数は、人類が駆除《くじょ》に成功したギタイの約半数をカウントする。二十年かかって倒してきたのと同じだけの敵を、三年に満たない年月で屠《ほふ》った計算だ。リタは、ギタイという敵相手に敗戦をつづけてきた統合防疫軍に降臨《こうりん》した救世主である。  ……と、言われている。  実際のところは、新兵器だか新戦術だかの開発に合わせて、戦線を巻き返すために用意されたプロパガンダ部隊の一員だというのがぼくらの見解だ。  兵士の六割は男だし、前線で血を流すジャケット兵になるとその割合は八割五分まではねあがる。正体不明の生命体相手に二十年も戦いがつづいて、なおもじりじりと敗《ま》けているとき、脳味噌《のうみそ》が筋肉でできている野郎どもの前に現れる救世主は男がいいか女がいいか? ぼくが参謀総長だったら女にする。  US特殊部隊が参加した戦線の士気は大いにあがり、崖《がけ》っぷちぎりぎりのところで統合防疫軍は巻き返しをはじめた。北アメリカ防疫戦を終えたあと、彼らは第二次ヨーロッパ防疫戦に参加し、そのあと北アフリカ防疫戦を支援、そして今度、本州の間近まで敵が迫っているジャパンにやってきたのである。  USの兵士は、彼女のことを戦場の牝犬《ビッチ》、またはクイーン・ビッチと呼ぶ。  ぼくらはひそかに基地外リタ電波スキーと呼んでいる。  リタ・ヴラタスキは真っ赤な機動ジャケットを身につけている。マトモな神経ではない。すこしでも敵の目をごまかそうと技術者が血眼《ちまなこ》になって開発した電波吸収塗装を鼻で嗤《わら》い、彼女はジャケットをガンメタリックレッドに彩《いろど》る。それもただの赤ではなく蛍光塗料だ。暗くなると、吸った光を吐きだしてぼうっと光る紅なのである。  赤い塗装は、流した味方の血なのだと陰口を叩《たた》く者もいる。戦場で目立てば敵の集中砲火を浴びるのだ。プロパガンダのため、彼女は平気で仲間を足蹴《あしげ》にし、あるときは己《おのれ》の楯《たて》にする。偏頭痛《へんずつう》がひどいときは敵味方の見境なく暴れまわる。そうやって、たった一発の敵弾もジャケットをかすらせることなく、どんな地獄からも帰還《きかん》してきた……等々。  伝え聞く数々の逸話《いつわ》とその嘘《うそ》くささ加減は、ヒマをもて余す兵士の時間|潰《つぶ》しにちょうどよかった。同じ前線基地で寝起きしている同じジャケット兵だというのに、いままで彼女の顔を見たこともなかったのだ。ひょっとしたら、同じ兵士でありながら特別扱いされているリタ・ヴラタスキが、ぼくらは気にいらなかったのかもしれない。  毛先がぴんぴんと跳《は》ねたリタのショートヘアを、ぼくは興味津々《きょうみしんしん》で眺めた。  よくよく見れば、リタ・ヴラタスキの顔はかなり整っていた。ひょっとしたら美人と呼べる範疇《はんちゅう》に入る。細い鼻。とがった顎《あご》。ジャケット兵にしては首も細いし色も白い。ついでといってはなんだが、胸もない。白色人種とは思えないほど、ない。どうでもいいことだけれど。  彼女の姿を見て戦場の牝犬《ビッチ》という言葉を思いついた奴は頭がどうかしている。どこをどう見たって仔犬《パピー》のほうがお似合いである。まあ、ドーベルマンの群れに一匹だけまぎれこんで平然としているパピーというのは、それはそれですごいパピーなのかもしれないが……。  今朝見た夢の中で、赤い機動ジャケットがぱかっと割れてこの女が出てきていたら、さぞかしぼくは驚いたことだろう。リタ・ヴラタスキというのは、もっと背が高くて冷酷《れいこく》っぽくてゴージャスなボディーで有能そうな雰囲気を振りまいている女性だと勝手に思いこんでいた。ぼくはくすりと笑った。  そして。  目が合ってしまった。  しばらくのあいだ、自分をじろじろと見る不届きな初年兵を彼女は凝視《ぎょうし》していた。ぼくは、凍《こお》りついたカエルみたいに見返していた。  歩きだした。  近づいてくる。  歩きかたは大型のケモノっぽかった。彼女は、一歩一歩大地を踏みしめるようにずんずんと歩を進める。しかし歩幅は狭いものだから、結果的にちょこまかずんずんというなんだかよくわからない歩きかたになっていた。  こっちは動けないというのに。近づいてくるな。ちくしょうお願いだからあっちへ行ってくれしっしっ!  リタは歩みを止めない。  やばい。二の腕の筋肉が振動しだした。  ちょこまか。  ずんずん。  くるり。  必死の願いが通じたのか、ぼくの目の前で九十度向きを変え、彼女は、少佐が座っている幕舎《テント》に向かった。  形式どおりの敬礼。くずれすぎてもいないし、かといって音が聞こえてくるほど決まっているわけでもない。戦場の牝犬《ビッチ》にふさわしい敬礼を彼女はした。  少佐はいぶかしげな視線をリタに注いだ。リタの階級は准尉だ。軍隊ヒエラルキーにおいて、少佐と准尉は、すこしばかり気取ったレストランで出てくるコース料理とファミリーレストランのランチセットくらいの差がある。ちなみに、初年兵のぼくはファストフード。それもつけあわせでむやみと大量に出てくるポテトである。  だが、彼女の所属は統合防疫軍USであり、今度の作戦の要《かなめ》であり、世界中のどの軍人よりも重要度が高い人物でもある。実質的な力関係は微妙なところだった。  リタは無言で立っている。  少佐が口を開いた。 「……なんだね」 「自分も参加してよろしいでしょうか」  夢で聞いたのと同じ甲高《かんだか》い声だ。正確なイントネーションの高速英語《バーストイングリッシュ》だった。 「明日は作戦が控《ひか》えているのだぞ」 「彼らも同じであります、自分が所属する部隊はあのようなPTを経験しておりません。自分の参加は、明日の共同作戦における連携《れんけい》を成功させる上で不可欠であると考えます」  少佐はうなったようだ。遠巻きにしているUS特殊部隊の連中が口笛を吹いてはやしたてる。 「作戦成功のため是非《ぜひ》参加を許可願います」 「う、うむ。よろしい」 「ご配慮《はいりょ》感謝します!」  びしっと敬礼。回れ右し、リタは、地面とにらめっこをしている男どもの列に潜りこんだ。  ぼくの隣だ。前支えをはじめた。ぴんと張りつめた空気を通して、しなやかな肉体が発する熱気が伝わってくる。  ぼくは、固まったままだ。  リタも動かない。高い空で熱気をまき散らす太陽が、ぼくらの肌をじりじりと焼く。脇の下を汗が一滴、すべり落ちた。リタの肌にも汗の玉が浮かんでいる。ファック! クリスマス用の七面鳥《しちめんちょう》と一緒にオーブンに閉じこめられたチキンになった気分だ。  彼女のくちびるがかすかに動いた。ぼくにしか聞こえない小さなちいさな声だった。 「自分の顔になにかついているだろうか?」 「え?」 「さっきからずっと見ていただろう」 「い……いえ……」 「レーザー照準器でポイントされているのかと思ったぞ。遠慮《えんりょ》のない視線に自分は慣れていないのでな」 「すみません。とと、とくに理由はないんです」 「なんだ。そうなのか」 「キリヤ! 馬鹿《ばか》者! 姿勢をくずすな!」  小隊長の罵声《ばせい》がとんだ。あわてて腕をぴんと伸ばす。リタ・ヴラタスキは、隣にいる兵士に話しかけたことなんか生まれてこのかた一度もないという顔で、前支えをつづけていた。  PTは一時間もしないで終わった。毒気を抜かれた少佐は訓示をたれずに宿舎へ戻っていった。装甲化歩兵第十七中隊は出撃前の午後を有意義に過ごした。  記憶と違う展開だった。夢の中では、リタと視線は合わなかったし、彼女がPTに参加することもなかった。  もしかしたら、考えすぎだとは思うけれどもしかしたら、少佐の気を削《そ》ぐつもりで彼女は参加してくれたという可能性もある。絶対的な階級社会である軍隊で、将官が決定した懲罰訓練に水を注すなんて戦女神の化身にしかできない芸当だ。気まぐれな電波女のアンテナに、奇妙な前支えがひっかかっただけの可能性もあるけれど……。  リタ・ヴラタスキは、言われているほど悪い奴ではないのではないかとか、ぼくは、そんなことを考えた。    4 「ああ、昨日はよかったなあ」 「はいはい」 「うん。あの細い体のどこにそんなバネがあるかってくらいレスポンスがよかった。こう、腹筋《ふっきん》がぽこぽこと跳《は》ね返ってきてよ」 「本人聞いたら怒りますよ」 「ほめられて怒る奴《やつ》はいねえし。それはそれとして、よかったなあ」  言葉と同時に、ヨナバルはくいっくいっと腰を突きだした。  ジャケットを装着した人間がそういった動作をとると非常に滑稽《こっけい》だ。なにげない動作のひとつが、一般家屋を倒壊させる威力《いりょく》を持っているようには見えない。  スリープ状態の機動ジャケットに身を包み、小隊はコトイウシ島の北端に埋伏《まいふく》していた。ぼくらの前には高さ五十センチ程度のスクリーンが張られ、ぼくらの背後の風景を映しだしている。光学|迷彩《めいさい》といって正面から見たときにぼくらの存在を気づかれにくくするための装置だ。もっとも、空爆で焼け野原になった地形は前も後ろも区別がつかないのだけれど。  ギタイは普段、海底まで繋《つな》がった洞窟《どうくつ》の中に潜《ひそ》んでいる。上陸作戦前には、地面を掘り進んで地底で爆発するミサイルをこれでもかと射ちこむ。一発でぼくの年収がふっとぶ高価なミサイルだ。だが、作戦計画を事前にどこかから入手しているのかと疑いたくなるくらい、奴等《やつら》は空爆をうまく回避する。制空権は人類の手にあるが、結局、大規模な地上戦で炙《あぶ》りだすしか手はないのだった。  伏兵《ふくへい》であるぼくらの隊は、組みたてるだけで小型|車輛《しゃりょう》並みの大きさになる大口径機関砲を持ってきていなかった。所持《しょじ》している武器は、口径二十ミリの機銃、燃料気化グレネード弾、パイルドライバ、そして各人三発ずつ支給されたロケットランチャだけである。  ぼくはヨナバルと通信ケーブルで直結し、ヨナバルはフェレウとケーブルで結ばれていた。  分隊を率《ひき》いるフェレウは他の何人かともケーブルで繋がり、小隊長と暗号通信している。気温は摂氏《せっし》二十八度。気圧は一〇一四ヘクトパスカル。あとすこしで主力が進軍を開始する。  昨晩、基礎訓練《PT》からの脱出に一時間で成功したぼくは、記憶と違ってどんちゃん騒ぎに参加した。読んだ気のする本をもう一度読む気にはなれなかったからだ。女性兵士とよろしくやったあと、べろべろで兵舎に戻ってきたヨナバルをベッドに押しあげたのは夢と一緒である。  ヨナバルの恋人もジャケット兵だという話だった。特殊部隊などを除いて、前線では男女別々に部隊が編成されるため戦場で会うことはまずないが。 「もし……もしもですよ、どっちかが死んじゃったりしたら悲しいと思いませんか?」  ぼくは聞いた。 「ああ。すっげー悲しいな」 「それでもいいんですか?」 「天国はスイスじゃねえからよ。秘密の口座に金をあずけて高飛びってわけにゃいかねえやな。できることはとりあえず出撃前にやっとく。兵士の基本だ」 「それはそうですけど……」 「ひがむなひがむな。だからおまえさんも早いとこ彼女を見つけとけって言っただろ」 「ひがんでなんかいません」 「電波スキーなんてどうだ? PTでなんか話してたろ。おまえさんに気があるんじゃねえの?」 「よしてください」 「ベッドでは燃えるんだ。ああいうチビっこいのは意外と」 「言いかたが下品ですよ」 「セックスに下品も上品もあるかよ。一|兵卒《へいそつ》も少将|閣下《かっか》も等しく股《また》ぐらほりだしてえっさほいさやるようヒトは進化しやがったのだからして——」 「ヨナバル、しゃべりすぎだ」 「軍曹《ぐんそう》までそんなこと言うんすかあ。悲しいなあ。一見バカっぽい話をすることで繊細《せんさい》なおれの神経がバラけないようにしてるっつうのになあ。みんなもそーだろ?」 「一部同意」 「おれは白票を投じさせてもらう」 「……」 「どちらかといえば同意、にしときます」 「オマエの冗談はフィルタリング機能でもともとハジいてるからどうでもいい」 「ヨナバルのツッコミはともかく、キリヤはボケとしてもうすこし修行が必要だと思うが?」 「分隊長! 自分は、そろそろ機動ジャケットのOSを起動しなおしたほうがいいと思うであります! 作戦中にハングったらシャレになりません!」 「タバコタバコタバコタバコ……ああ、吸いてえなあ」 「なんだよおまえ、まだニコチン中毒なおってなかったのか?」 「ごちゃごちゃやかましい! うるさくて眠れねえぞコラ」  ケーブルで繋がった分隊の男たちが口々に反応を返した。フェレウはあきれたように肩をゆすってみせる。  緊張で体が破裂しそうなときは楽しいことを考えるといい、というのは本当のことである。  ぼくも訓練校で習った。人類の中でもドウブツ寄りな野郎どもが考える「楽しいこと」が異性関係に集中するのもまたしかたないことだ。  とはいっても、ぼくが考えることのできる女の人といったら、正確な顔さえもぼやけつつある司書のあの人くらいなのだ。いまどうしているかも知らない。結婚して半年以上たっているから、お腹《なか》が大きくなっていたりするかもしれない。  ハイスクールを卒業したばかりのぼくが軍へ志願したのと、彼女に失恋したことに直接的な因果関係はない。いや、ないと思う。  入隊したのは、オッズに命をかける戦場なら、クソったれなこの世界に意味を見いだせるんじゃないかと考えたからだ。あの頃のぼくはずいぶん青臭い考えかたをしていた。いまのぼくがネイビーブルーだとしたら、インディゴブルーくらいには青臭かった。あいにくとぼくの命なんてものはミサイル一発分の経済価値もないらしく、賭《か》け金の代わりに世界の意味を教えてくれる親切なディーラーはいまだに現れていない。 「だいたいっすねえ。塹壕《ざんごう》も掘らないで座ってていいんすかあ?」 「塹壕掘ったら隠蔽《いんぺい》にならんだろうが」 「光学迷彩ってたいして役に立ってねえと思うんすよねえ。敵さんの可視レンジが人間と同じだと決まったわけじゃねえし。敵には見えないはずの攻撃ヘリがバンバン撃墜《げきつい》されちまって、オキナワじゃさんざん苦労したじゃないすか」 「こんど敵に会ったら見えるか見えないか聞いといてやる」 「塹壕は人類最大の発明だと思うんだけどなあ。掘りてえなあ。塹壕」 「基地に帰ってから好きなだけ掘れ。特別に許可する」 「それ、捕虜《ほりょ》にやらせる拷問《ごうもん》じゃないすか」 「ときどき思うことがある。おめえの口にかけるファスナーを開発した奴におれの年金を全部くれてやっても……クソったれ! 作戦開始だ。キンタマ落とさねえように気イ引きしめていけ!」  フェレウが叫んだ。  けたたましく銃弾が飛び交う音がした。彼方《かなた》で砲弾が破裂する振動が伝わってくる。  ぼくはヨナバルに注意を向けた。PTの一件を見るかぎり、夢は夢だったということだけれど、戦いがはじまった早々となりで死なれたら寝ざめが悪い。スピア弾が飛んできたのは二時の方向。光学迷彩のスクリーンを突き破ってそいつは飛来した。作戦開始の合図から一分たつかたたないかだ。  いつでも突きとばせるよう、ぼくは体に力をこめる。  腕が震える。背中が痒《かゆ》い。インナースーツの皺《しわ》がわき腹の皮膚《ひふ》を圧迫する。  来るなら来やがれ。  結論として、ヨナバルは死ななかった。  彼を殺すはずだった最初の一弾は、なぜか、ぼくを目標に飛来したのだ。一ミリだって動く余裕はなかった。クソったれな敵弾が自分目がけてまっすぐに迫ってくる様子を、この先ずっとぼくは忘れることができないだろう。    5  読みかけのペーパーバックが枕元に置いてあった。  オリエント通《つう》を気取るアメリカ人探偵が主人公のミステリー小説である。事件の関係者がニューヨークの和風レストランに集まった場面にひとさし指がはさまっている。  寝たままの姿勢で周囲に目を配る。変わりばえのしない兵舎。水着ギャルのポスターに首相の顔。二段ベッドの上段では低音が割れたラジオ音楽。彼女がいなくなっても悲しむなよと、いまはもうこの世にいないミュージシャンは静かに歌っている。アニメ声のDJが天気予報を読みあげるのを確認して、ぼくは起きあがる。  ベッドの上にどっかと座りなおした。  腕をおもいきりつねる。  つねった場所が赤くなった。  すげえ痛い。  ちょっとだけ涙がにじんだ。 「ケイジ。これ、サインな」  上段からヨナバルが首をのぞかせた。 「……」 「なんだよ。寝ぼけてるのか?」 「いえ。サインですね。わかりました」  ヨナバルがひっこんだ。 「変なこと聞きますけど」 「なんだ? サイン一発、それ以外はなにも書かなくていいぞ。裏側に小隊長の似顔絵を描くのもなしだ」 「そんなことしません」 「そうか。おれは最初のときやったけどな」 「一緒にしないでくだ……そうじゃなくって。今日は……出撃は明日ですよね?」 「決まってんじゃねえかそんなこと」 「同じ日が繰り返してるなんてこと、ないですよね」 「寝ぼけてんじゃねえぞ。昨日の次は今日。今日の次は明日。そうやって進んでかなかったらバレンタインもクリスマスも来ねえじゃんか。地獄だ」 「……そうですよね」 「まあ、アレだ。初出撃だからって、あんまり気に病《や》むなってこった」 「はあ」 「悩みすぎると、命をなくす前に宇宙の怪電波で頭をやられっちまうぞ」  スチールパイプの骨組みを、ぼくはぼんやりと眺《なが》めた。  ぼくが子供だった頃、ギタイ対人類の戦争はすでにはじまっていた。ガキどものあいだでは異星人を相手にした銃撃戦の遊びが流行《はや》っていた。プラスチック弾をバネの力で撃ちだす玩具《おもちゃ》の銃を使うやつだ。弾が当たってもたいして痛くない。至近《しきん》距離でも我慢できるくらいの衝撃だった。  ぼくは死せる英雄が得意だった。わざととびだして敵弾を一身にあびる役だ。撃たれれば撃たれるほど、弾が体に当たってダンスのように跳《は》ねる演技をする。これがぼくはうまかった。英雄の死によって味方は奮起《ふんき》して敵に突撃する。尊《とうと》い犠牲《ぎせい》を払って人類側が勝利をおさめるハッピーエンドだ。人類が勝ち名乗りをあげると、敵役だった奴まで人類に戻って万歳三唱《ばんざいさんしょう》をする。他愛《たあい》のない遊びだった。  死せる英雄は「ごっこ」だからできたことである。本当の戦争で死んで英雄になるなどまっぴらごめんだと、大人になりかけのキリヤ・ケイジは思う。たとえ、それが夢でも。  何度起きようとしても起きられない悪夢というやつがある。夢を見ているぼくは、何回か起きると夢の中にいることに気づく。わかっているのにループから脱出できない状態が焦燥《しょうそう》感となって押し寄せる。  今度のこともそれなのかと考えてみる。  目の前に広がる情景は、すでに二度経験した出撃前日だ。本当のぼくはスチールパイプのベッドの中でうなされている最中ということもありえる。夢ならば、記憶と同じ現象が起きてもおかしくない。すべては脳内の出来事なのだから——。  バカバカしい。  ぼくは、ベッドのやわらかい部分を殴りつけた。  向かってくるあの黒い点が夢だって? 装甲《そうこう》板を砕《くだ》いて胸を突き抜けたスピア弾が頭の中の出来事? 口から飛び散った臓物の破片と血の塊《かたまり》が幻覚?  肺を潰《つぶ》された人間がどういう状態になるのか教えてやろう。そいつは溺《おぼ》れるのだ。水の中でなく、空気の中で。呼吸しようとどれほど力を込めても、潰れた肺は、肉体に活力を与える酸素を血液中に送りだすことができない。仲間たちが意識もせずに呼吸している空気の中で、不運なそいつはひとり溺れて死んでいくのである。  自分で体験するまで知らなかった知識だ。話で聞いたこともなかった。あの感覚はつくりごとなんかじゃない。現実に起きたことなのだ。  あの情景を夜中に思いだすたび、ぼくは叫び声をあげてとび起きるだろう。あれは、けっして夢じゃない。誰にも話せないことでも、誰も信じてくれそうもなくても、ぼくの体に残った感覚が真実だと証明している。電撃と化して体内を暴れまわる痛みと、土嚢《どのう》が詰まったみたいにクソ重たい下半身と、心臓を握り潰されるような恐怖は、夢の中のごっこ遊びではつくりだせない。なぜだかはわからないけれど、ぼくは、たしかに、二度|戦死《KIA》になった。  どこかで聞いたような会話をヨナバルと繰り返すのはいい。何十回でも何百回でもやってやろう。もともと変わりばえのしない毎日に埋没《まいぼつ》していたのだから。だが、戦場の繰り返しはごめんだ。  このままここにいたら戦場で殺される。ヨナバルより先に死ぬか後に死ぬか、そんなことは関係なく。ぼくは激戦を生き残ることができないのだ。  ここにいてはいけない。  逃げなければならない。  ここではないどこかへ。  仏《ほとけ》の顔もなんとやらという。神や仏の存在を無邪気に信じることはできないけれど、天が与えてくれた三度めのチャンスをぼくはモノにしなければならない。二段ベッドの裏側をじっと見つめていても、死体袋行きになる以外の道は開けない。死にたくなければ動け。動いてから考えろ。訓練校で教わったじゃないか。  時間がループしているなら、数分もしないうちにフェレウが現れる。一周めのぼくがトイレでクソをたれ、二周めのぼくがヨナバルと能天気な話をしていた時間帯だ。そのあと、やくたいもない基礎訓練《PT》に狩りだされてへとへとになる。  しかし、考えようだ。PTには装甲化歩兵第十七中隊全員が参加する。それどころか、ヒマをもてあました見物人がぞろぞろと臨海演習場に集まるのだ。基地とおさらばする願ってもないチャンスではないか? 訓練終了後のぼくが体力を消耗《しょうもう》していること考慮《こうりょ》すれば、逃避行が成功する唯一《ゆいいつ》の機会だといえる。  わざとケガをするというのも手だ。負傷兵はPTに参加しない。PTを抜けだせるくらいヤバく見えて、なおかつ問題なく活動できる程度の傷をつくるのである。  傷の深さの割に派手《はで》な出血をするのは頭部だと習ったおぼえがある。ファーストエイドを行う際の心得《こころえ》だ。ジャケットの上からギタイに頭を吹きとばされてファーストエイドもなにもないだろうとその時は思ったものだが、意外なところで知識が役にたつ。  すべてを迅速《じんそく》に実行しなければならない。  ファック! あれだけ無駄に繰り返した時間が肝心《かんじん》なときに限って足りない。もうすぐトンカチ頭の軍曹《ぐんそう》が来る。動け! 動け! 「なにごそごそやってんだ?」  ヨナバルが能天気な声を出した。 「ちょっと出てきます!」 「ちょっとってなんだよ。おい! サイン!」  靴ヒモを結ぶ手間も省《はぶ》いて、ぼくは通路にとびだした。水着ギャルのポスターにぶつかる前に方向転換、コンクリートがじゃりっと音をたてる、寝転がってエロ雑誌を眺めている男の横を駆け抜ける。  これといったあてがあるわけではなかった。いまはフェレウとの遭遇《そうぐう》を避けるのが優先事項だ。人目のないところでなんとか傷をつくり、ヨナバルとフェレウの話が終わる頃を見計らって血まみれで帰ってくる。とっさに考えだした割にはけっこうマシなプランだ。  ああくそ。だったら枕元のコンバットナイフを持ってくるのだった。ギタイを相手にするにはこころもとないが、缶を開けたり穴を掘ったり、草木や布を切ったり、兵士に不可欠の道具だ。訓練校では何度もそれでケガをした。あれがあれば、額《ひたい》の傷だってわけなくつくれるだろうに。  兵舎の入口を走り抜けたぼくは、とりあえず司令部と遠ざかる方向にむかう。スピードは緩《ゆる》めない。兵舎の角を曲がる。  そこに、人がいた。最悪のタイミングだった。  彼女は、ジャガイモを山ほど積んだカートを重そうに押していた。波うつ黒髪を純白の三角巾《さんかくきん》で覆《おお》っていた。健康そうな浅黒い肌《はだ》とかなり大きな胸。細いウエスト。人類という種のメスに、美人と不細工とオマエはもう軍隊に入るしかないだろうってレベルのゴリラモドキの三種類がいるとしたら、文句なしで美人に分類される女性だ。  名前はたしかレイチェル・キサラギ。第二食堂で働く民間人である。  二十年も戦争がつづいている現在、軍隊に係《かか》わる人間をすべて公務員にしていたのでは経済が保《も》たなくなっている。たとえ前線基地でも非戦闘員はできるだけ民間人を使うのだ。非戦闘地域における戦闘物資の輸送を民間にまかせようという議題を国会が審議しているくらいで、いまに兵士も民間企業が請《う》け負うことになるんじゃないかという冗談だかなんだかわからない笑い話もある。  レイチェルは、コックというよりは栄養士に近い役割だと聞いている。いまのガールフレンドとつきあう前、ヨナバルが尻《しり》を追いかけまわしていたので、ぼくはこの女性の顔をおぼえていた。軽い男は嫌だとヨナバルは鼻もひっかけてもらえなかったらしいが。  そんなことが頭をよぎった時には、ぼくの体はジャガイモの山に勢いよく突っこんでいた。バランスをとろうと踏みだした右足がジャガイモの上で滑る。尻もちをつく。雪崩《なだれ》を打った無数のジャガイモがぼくの顔面に容赦《ようしゃ》なくジャブを入れる。世界ベルトが獲《と》れる連打だ。倒れこんだ金属のカートが、とどめの右ストレートをテンプルに決めた。  燃料気化爆弾並みの騒音をたててぼくは倒れこんだ。しばらく息をすることができなかった。 「だいじょうぶ?」  ぼくは呻《うめ》いた。レイチェルは無事のようだ。 「な……んとか」 「ごめんなさい。これ押してると前が見えなくって」 「いえ。急にとび出したぼくが悪いんです」 「あれ……あなたたしか……」  突然とびだしてぶっ倒れた男を、レイチェルは緑の瞳《ひとみ》で見つめた。さんざん苦労して、ぼくは弱々しい笑みを浮かべる。 「また迷惑をかけちゃいました」 「やっぱり。第十七中隊の新人さんね」 「そうです。すみません」  座りこんだままぼくは謝罪する。腰に手をあてて、レイチェルは地面にぶちまけられたジャガイモを見渡した。きれいな眉《まゆ》がすこしだけ悲しそうなカーブを描いていた。 「ま。転がっちゃったもんはしょうがないし」 「はあ」 「ジャガイモってよく転がるのね。丸いだけあって」 「すみません」 「見事にぶちまけたものよね」 「……」 「手伝ってくれれば拾うのも早く終わると思うんだけどなあ」 「い、いえ……は、はい」 「どっち?」  これみよがしに胸をつきだして、レイチェルは言った。  いまは一刻を争う場面だった。ここで逃げなければ明日には命がない。のんきにジャガイモを拾っている余裕はなかった。しかし、彼女はなぜか逆らいがたい雰囲気《ふんいき》を持っているのだった。基地に配属されて最初に会ったときからそうだ。だから、体が痛いふりをしてぼくはぐずぐずと座っていた。  答えるために息を吸いこむ。  規則正しい足音が聞こえた。 「なにしてやがる」  フェレウだ。  兵舎の角から姿を現したフェレウは、コンクリートの通路一面に広がったジャガイモをつまらなそうな顔で眺めた。いつものだみ声が、地獄の番犬のうなり声に聞こえた。 「あの……これはあたしが」 「キリヤ、これはおめえか?」 「はい!」  ぼくは急いで起きあがった。くらっとめまいがする。  ぎょろ目を剥《む》いて、フェレウはぼくを凝視《ぎょうし》した。 「な、なんですか?」 「ケガしてるな。見せてみろ」 「いえ。たいしたことないです!」  フェレウは近づいて、ぼくの頭に手をあてる。ちょうど毛の生《は》え際のあたりだった。  激痛が顔の表面を走り抜けた。ぶっとい指が傷口をぐいと開く。ロックンロールのビートでなまあたたかい液体が額からほとばしる。粘度《ねんど》をもった液体は、鼻の横を通り抜け、口の端をかすめてあごの先からしたたり落ちる。コンクリートに鮮血の華《はな》がぽつぽつと咲く。つん、と、鉄と同じ臭《にお》いがした。レイチェルが息を飲む音が聞こえた。 「ふん。切り口がずいぶんときれいじゃねえか。どこにぶつけやがった」 「あたしがカートを倒しちゃったんです。ごめんなさい」 「そうなのか?」 「ぶつかったのはぼくのせいですが、おおむねそんなかんじです」 「そうか……たいした傷じゃねえ。安心しろ」  フェレウはぼくの後頭部をばしっと叩《たた》いた。血液の飛沫《しぶき》がぱっと飛び散ってシャツに染《し》みをつくった。  ぼくをその場に立たせたまま兵舎の角まで戻り、フェレウは、壁にとまっているセミを撃墜《げきつい》できそうな大声で叫ぶ。 「おい! ヨナバル! 出てこい」 「はいはいはい、兵隊さんは気楽な稼業《かぎょう》ときたもんだっと。なんすかあ……あ、レイチェルちゃんおはよう。ついでに軍曹もいいお天気で。あんまりいい陽気なんでコンクリからジャガイモが生えたみたいっすね」 「バカ言ってねえで拾う人間集めてこい」 「おれがっすか?」 「こいつがこれなんだからしょうがねえだろ」 「うひょー、プロレスラーの流血戦みたいじゃん……ってことは、これぶちまけたのはケイジなのか。なんだよまったく朝の大切なひとときを過ごしてるっつーのに」 「あら、あたしの手伝いをするの、嫌?」 「滅相《めっそう》もない。レイチェルちゃんのためならジャガイモだろうとカボチャだろうと対人地雷だろうといくらでも拾っちゃうよ」 「やかましい。ったくウチの小隊のグズどもは余計なことばかりしやがって……」 「心外っすねえ。第十七中隊一番の働き者をつかまえて」 「キリヤ! 突っ立ってねえでとっとと緊急治療《ER》へ行ってこい! おめえは今日のPTに参加しなくていい。小隊長にはおれが報告しとく」 「PT? なんすかそりゃ?」 「昨晩PXでヘマこいたブタのケツがいやがってな。おめえらが悪いわけじゃねえが、|〇九〇〇《マルキュウマルマル》、第一臨海演習場に第四装備で集合ってことに決まった」 「ちょ、ちょっと冗談キツいっすよ。明日出撃なんすよ」 「ヨナバル伍長《ごちょう》、復唱」 「|〇九〇〇《マルキュウマルマル》、第一臨海演習場に第四装備で集合します……でも軍曹、グルジア強襲《きょうしゅう》作戦なんて毎度のことなのに。なんでいまさら文句言われなきゃなんねえんすか」 「……知りてえか?」  聞いたことのある会話を背後に、ぼくはそそくさとERに逃げだした。    6  ぼくのIDカードを見た警備兵がいぶかしげな顔をした。  フラワーライン前線基地と外界を繋《つな》ぐゲート前でのことだ。  US特殊部隊の駐留によって、現在、この前線基地には二系統の警備が存在していた。基地全体を統轄《とうかつ》するJPの警備隊は、力関係からUSの管轄区域に手出しすることができない。しかし、USの警備隊は自分たちのこと以外は無関心だった。  上官が発行した外出許可証がなければキリヤ・ケイジのIDでは基地の外に出ることができない。しかし、USの連中は支給されたIDだけで外出可能だ。共用ゲートにいるUSの警備兵なら、JPのIDもノーチェックで門を開くかもしれない。彼らの任務は虎《とら》の子の特殊部隊に近づく不審者《ふしんしゃ》を排除《はいじょ》することであり、戦場から逃げだそうとする初年兵に目を光らせることではない。  警備兵は、見慣れぬIDカードをじろじろと見ている。  ゲートにあるIDチェッカーは、通った人間のIDを記録するだけのはずだ。だいじょうぶ。出撃前日に突然システムが変わることはない。ぼくは腹に力を込める。警備兵は、IDに印刷された不鮮明な写真とぼくの顔を交互に見ている。  額《ひたい》の傷が焼ける痛みを発する。ERのヤブ医者め、麻酔なしで三針も縫いやがって。傷口が発電した熱い電流が体を駆けまわっている。ひざの骨がぎしぎし軋《きし》む。いまのぼく丸腰だ。枕の下に置いてきたナイフが恋しい。あれがあればこいつを羽交《はが》い絞《じ》めにして……馬鹿なことを考えるな。警備兵ひとりを戦闘不能にしたって逃げられやしない。背筋《せすじ》を伸ばせ。平然としていろ。睨《にら》まれたら睨み返せ。  つまらなそうに、警備兵はゲートのボタンを押した。  ぎしぎしと音をたてて自由への扉が開いた。  黄色いバーをくぐり抜けながら、ぼくは、ゆっくりと振り返った。  遠く第一臨海演習場が見えた。海の匂《にお》いを乗せた潮風《しおかぜ》が、演習場を貫いてゲートまで吹き寄せている。フェンスの向こう側では、豆粒大の兵士たちが小さなちいさなスクワットを繰り返していた。同じメシを食って同じ訓練を受けてきた第十七中隊の仲間だった。  せりあがる感傷を飲みくだす。ぬめっとした風を体に受けながら、ぼくは、あせらずゆっくりと歩いた。警備兵の視野からはずれるまでは、歩け。走るな。もうすぐだ。角を曲がる。走りだした。  それからのぼくは走りに走った。  フラワーラインの前線基地から歓楽街《かんらくがい》のあるタテヤマまで十五キロ。遠回りしても二十キロはない。そこで服装を換え、必要なものを調達する。列車や幹線道路を使うわけにはいかないが、チバシティーに潜りこんでしまえばこっちのものだ。スラム化した地下街は軍も警察も手出しできない。  一八三〇の小隊ミーティングまでおよそ八時間。そのときにぼくの脱走が明るみになるはずだ。奴等《やつら》が車を出すかヘリを出すか、夕方までに人込みの中へ潜りこんでいたい。  フジ山麓《さんろく》で装備一式をつけて六十キロの行軍をしたことを思えば、ボーソー半島は半日で走破できない距離ではなかった。明日の作戦がはじまる頃には、繰り返しも突然の死もない安全な闇《やみ》の中へぼくは逃げ込んでいることだろう。  虚空《こくう》に浮かぶ太陽からまばゆい光が降りそそいでいた。護岸《ごがん》ブロックの陰《かげ》に、白いビニールカバーのついた五十七ミリ速射砲が百メートル間隔《かんかく》で設置してある。年代物らしく基部の鋼板が赤茶色に錆《さ》びていた。ギタイが本土に上陸したときに備え全国の海岸線に配備された防衛設備だ。  子供のときに見た速射砲の勇姿はやたらとカッコよく、鈍色《にびいろ》の鋼鉄にぼくは根拠のない信頼を寄せていた気がする。しかし、実戦を経験したいまは、この兵器ではギタイの侵攻を阻止《そし》できないと冷静に考える。えっちらおっちらこんなのを旋回《せんかい》させてギタイに命中《あ》たるもんか。バカバカしい。  こんなものでも専用の保守要員がいて、週に一回点検しているという。戦争ってやつは無駄が多い。  人類は敗《ま》けてしまうのかもしれない。  ふと、そう思った。  ぼくが統合|防疫《ぼうえき》軍に志願すると伝えたとき、両親は沿岸警備隊を勧《すす》めた。戦場に行かなくても戦いはできると。人々が住む街を守るのも大切な仕事だと。  だが、ぼくは、人類のためにギタイと戦いたかったのではないのだった。英雄はムービーの中だけでたくさんだ。  人類を救うなどという大層な気持ちはぼくのどこを探しても見つからない。代わりに存在するのは、何回チャレンジしても外れない知恵の輪を前にしたような、いくら探しても形の合わないパズルのピースに埋もれているような、いらだちやムカつきだ。司書のあの人を振り向かせることができなかった根性なしの自分を、戦争という巨大なうねりが変えてくれるんじゃないかとぼくは考えた。キリヤ・ケイジをパーフェクトな男にするための最後のピースが戦場に落ちているなんていう調子のいいドリームもすこしは入っていたかもしれないけれど、それでも、英雄となって皆に祝福される必要なんて金輪際《こんりんざい》ないのだ。数少ない友人たちに、ぼくだって本当はやる[#「やる」に傍点]奴なのだとわかってもらえるようになりさえすればそれでよかった。  結果はこのとおり。  半年の訓練で手に入れたのは、実戦で役に立たないいくつかのスキルと割れた腹筋だけ。ぼくは根性なしのままだし、世の中もクソったれなままだ。父さん、母さん、すまない。あたり前のことに気づくのにずいぶん時間がかかった。軍から脱走するときになってわかるというのも皮肉な話だけれど……。  砂浜に人影はなかった。  沿岸部の疎開《そかい》はこの半年でだいぶ進んだらしい。  小一時間走りつづけて、やっとぼくは護岸ブロックに腰をおろした。走破した距離はおよそ八キロといったところだ。タテヤマまで半分の距離に来ていた。  埃《ほこり》色のシャツが汗《あせ》で黒くなっていた。額に貼《は》ったガーゼがはがれかかっている。基地とは違うさわやかな潮風がむきだしの首筋をなでていく。現実世界にそこだけアニメの世界が混じってしまったような速射砲のシルエットがなければ、夏のリゾート地として通用する風景だった。  護岸ブロックの陰にはロケット花火の残骸《ざんがい》が捨ててあった。プラスチックのパイプを組みたててつくった原始的な打ち上げ花火である。  前線基地の近くまでわざわざやってきて花火で遊ぶ酔狂《すいきょう》な人間はいないから、おそらくこれは、フラワーラインの出撃状況をギタイに伝えようとする電波野郎どもが残していったものである。ギタイには知能があるとの思い込みのもと、一方的にコミュニケーションをとろうとしている反戦派が存在するのだった。素晴らしきかな民主主義。  地球温暖化が進んだ影響で、このあたりの砂浜は満潮時にはすべて海面下に沈む。このクソったれなプラスチックパイプも、夕方になったら海に流れて終わりだ。発見する者は誰もいない。  溶けかかったプラスチックパイプを、ぼくは思いきり蹴《け》とばした。 「兵隊さんがや?」  突然の声にぼくは振り返った。ひさしぶりに耳にするジャパニーズネイティブの言葉だった。ぼんやりとしていて、背後に近づく人の気配に気づかなかったのだ。  堤防の上にふたりの人間が立っていた。  ひとりは老人、ひとりは少女。天気がいい日の海に漬《つ》けこんだらいいだし[#「だし」に傍点]が出そうな肌《はだ》をした老人は、童話に出てくるのとそっくりな三《み》つ又《また》槍《やり》を左手に下げている。エレメンタリースクールに通っているくらいの少女が彼の右手をぎゅっと握っていた。  老人の脚《あし》に体の半分を隠し、少女は、麦わら帽子の奥から遠慮《えんりょ》のない視線の弾丸をぼくに浴びせている。帽子の下の顔は、老人とは対照的に、紫外線を浴びたことがないと思えるほど白かった。 「このあたいじゃ見かけね顔だ」 「フラワーラインの者ですから……」  クソったれなぼくの口め! 「ほう」 「お、おじいさんたちはどうしてここに?」 「なじょしてもこしても海にいねば魚はとれね。家《いい》のもんはトーキョーさ行《え》ったけっとよ」 「沿岸警備隊はいないんですか?」 「オキナワ敗戦聞いてあがらてんずちいねくなったあよう。んだけっとも、兵隊さんがウミゲエロさうんのめしてくれりゃ安心だ」 「はあ」  ウミゲエロとは海のカエル、すなわちギタイのことだろう。一般の人間は実物のギタイを見る機会がない。浜に打ちあげられる死骸《しがい》や漁師の網《あみ》にひっかかる死骸は、伝導流砂が海水に流れ出したがらんどうの殻《から》である。それゆえ、ギタイのことを脱皮する特別なカエルだと考えている人間も多い。  老人の言葉は七割くらいしか聞きとることができなかったが、沿岸警備隊がこのあたりから撤収《てっしゅう》したことはわかった。オキナワ上陸戦の敗北はぼくが考えていたよりずっと深刻らしい。ウチボーの戦力を引きあげるほどに。沿岸警備隊は、大都市や工業地帯周辺部に集中して再配備されたのだ。  老人はうんうんとうなずいていた。そんな彼の様子を、少女は大きな瞳《ひとみ》で不思議そうに見あげている。  フラワーラインの統合防疫軍部隊に老人はたいそうな期待をかけているみたいだった。彼のために戦っているのでも彼のために訓練を受けたのでもないが、ぼくは、なんとなく悪い気がした。 「兵隊さん、煙草《たばこ》さ持ってねか? 警備の兵隊さんがいねくなってから手に入らねくなってよ」 「すみません。吸わないんです」 「しゃんめや」  老人は海を見つめた。  装甲《そうこう》化歩兵部隊にニコチン中毒者はほとんどいない。もっとも必要となる戦場で吸うことができないからである。  ぼくは無言で立っていた。余計な言葉も素振りもなしだ。脱走兵だと彼に気づかれてはならない。脱走は銃殺刑だ。ギタイから逃れても軍に殺されては意味がない。  少女が老人の手を引っぱった。 「ああ……こいつは体弱くってよ。ふに目がよいだかい男さ生まれてたらいい漁師になったろうに」 「はあ」 「そんでひとつ聞きてんだけっとも、こいつが見なれねもん見つけてよ。あわてて家飛び出てきたら兵隊さんさおったんだあよう。あれはあんだ? あにかウミゲエロに関係あるがや?」  老人は腕をあげた。  枯れ枝のような指先に、ぼくは目を凝《こ》らす。沖合いの海が緑に変色していた。南国の海の澄んだグリーンではなく乳白色に濁《にご》った緑である。巨大タンカーが座礁《ざしょう》して、タンク一杯に入っていた抹茶《まっちゃ》シェイクが海面に流れだしたような、そんな色だった。波間にきらきらと光る物体は魚の死体だ。  ぼくはあの緑を知っていた。訓練校のモニターで見たことがあった。  ギタイはミミズのように土壌《どじょう》を食らう。ミミズと違うのは、体内をくぐり抜け排泄《はいせつ》された土壌が他の生物にとって有害なものに変化していることだ。ギタイの活動によって生態系を破壊された土地は砂漠になる。海は濁った緑色になる。 「赤潮《あかしお》はあんな色じゃねだんべ」  きゅーんと、甲高《かんだか》い音がした。頭に響《ひび》く戦場の調べだった。  眉《まゆ》をひそめた表情のまま老人の頭が放物線を描いて飛ぶ。粉砕《ふんさい》された顎《あご》と首が血飛沫《ちしぶき》となって麦わら帽子を紅《あか》く彩《いろど》る。  少女はなにが起きたか気づいていない。スピア弾の初速は一秒間で千二百メートル。弾が空を裂く音よりも早く、老人の首は空を飛んでいる。ゆっくりと顔をあげる。  第二弾飛来。黒い瞳が死んだ祖父の姿を捉《とら》える前に、慈悲《じひ》も無慈悲も関係ないスピア弾が少女の体を貫く。  小さな体が四散した。  爆風に煽《あお》られ、頭部を失った老人の肉体が前後に揺れる。老人の半身は深紅《しんく》に彩られている。麦わら帽子がくるくると宙を舞っている。体がすくんでぼくは動けない。  ぶくぶくに膨《ふく》らんだカエルの溺死体《できしたい》が波打ち際に立っていた。  この海岸は絶対防衛線の内側だ。哨戒艇《しょうかいてい》が撃沈させられたという話は聞いていない。前線基地も健在である。こんなところにギタイがいるわけがなかった。なのにふたりの人間が死んだ。装甲化歩兵部隊に期待をかけていた老漁師と孫娘は、脱走してきたジャケット兵の目の前で無惨《むざん》な死を遂《と》げた。  ぼくは丸腰だった。ナイフも銃も機動ジャケットも遙《はる》か彼方《かなた》のフラワーライン前線基地にある。頼りになる仲間は一時間前に捨ててきた。  もっとも近くにある五十七ミリ速射砲まで三十メートル。走ればすぐの距離だ。使いかたは知っている。白い防水カバーが恨《うら》めしい。あんなものをはずしているヒマがあるわけがない。その前に、基部の扉にIDを差し込み暗号を打ちこんで三十キロある弾倉《だんそう》をえっちらおっちら持ちあげ装填《そうてん》しなければ照準の前に回転固定レバーを引っこ抜かないと砲塔は動かないそれからシートに座って錆びついたハンドルをぐるぐるぐるぐるクソったれ! とにかく撃つしかない!  ギタイの強さは知っている。重量は完全武装したジャケット兵の数倍。構造は棘波《きょくひ》生物に近く、ヒフのすぐ下に固い骨格がある。こいつを完全に貫くには五十ミリ以上の徹甲弾《てっこうだん》が必要だ。こちらの手にはなにもないというのに、奴等は情け容赦《ようしゃ》なくぼくらを粉微塵《こなみじん》にする。整地用の土木機械が、地べたに棲息《せいそく》するムシの巣を踏み潰《つぶ》していくように。 「……冗談じゃねえぞ」  一発めのスピア弾はぼくの太腿《ふともも》を貫通した。  二発めは振り返った背中に大穴を空《あ》けた。  三発めのことはおぼえていない。喉《のど》をせりあがる内臓を飲みくだすのに一生懸命でそれどころではなかった。  ぼくの意識が消滅した。    7  読みかけのペーパーバックが枕元に置いてあった。  ベッドの上段ではヨナバルが念書の束を数えている。 「ケイジ。これ、サインな」 「先輩、ハンドガン持ってましたよね」 「持ってるよ」 「見せてくれませんか?」 「いつからガンマニアになったんだ?」 「そういうわけじゃないですけど……」  上段から伸びた手が一度ひっこみ、黒光りする鋼鉄の塊《かたまり》をぶらさげた。 「弾入ってるぞ。おれのほう向けんなよ」 「あ、はい」 「おまえさんも伍長《ごちょう》になりゃベッドの中までオモチャを持ち込んでもママに怒られないようになる。どっちみち、ギタイ相手にゃこんな豆鉄砲じゃ役に立たねえんだから。ジャケット兵が戦場に持ってく武器は二十ミリ限定。ロケットランチャは各自三発。バナナはおやつに含まない。それよりサイン」 「……」  直径九ミリの灼熱《しゃくねつ》の銃弾を内に秘めた冷たい銃口を、ぼくは、口に咥《くわ》える。  トリガを引いた。    8  読みかけのペーパーバックが枕元に置いてあった。  ぼくはため息をつく。 「ケイジ。これ、サインな」  上段からヨナバルが首をのぞかせた。 「了解であります」 「深刻そうな顔しやがって。いまから緊張してたら本番まで保《も》たねえぞ」 「緊張じゃないですよ」 「気にすんな、最初は誰でもそうだ。女と同じで、ヤるまではそのことで頭がはちきれそうになる。想像でオナってるうちが華《はな》だってよ」 「先輩の言葉とも思えませんけど」 「なに、経験者は語るってやつだ」 「もし……これは仮定の話なんですけど、最初の一回が永遠につづくとしたらどうします?」 「なんだよそりゃ」 「だから、もしもですよ。すごろくのふりだしに戻るみたいに、一回めが終わったと思ったらまた繰り返すんです」 「そりゃおまえ——」  逆さのまま、ヨナバルは思案の表情を浮かべた。 「セックスと戦争でだいぶ話が違うんじゃねえか?」 「セックスのことなんて聞いてません」 「オキナワ上陸戦をもっかいやれって言われてもごめんこうむるね。銃殺されたって嫌だ」  その銃殺さえも永遠に繰り返すとなったら彼はどうするのだろう?  人間は、自分のケツを自分で拭《ふ》くことができる生物だ。最終的な決断は自分がする。状況だって決断を左右する一要素にすぎない。  もちろんそれは、すべての人間にすべての選択が許されているということじゃない。エースを隠し持っている者もいれば、最初からババ札《ふだ》しか配られていない者もいる。突然デッドエンドを告げられることだってある。でも、そこまでの道のりは、一人ひとり、みずからの脚《あし》で歩いてきたのだ。死刑台の上でだって、人は、従容《しょうよう》として死ぬか、暴れたあげくとりおさえられて終焉《しゅうえん》を迎えるかを選ぶことができる。  だけれど、ぼくは、戦場から逃げだすことができない。タテヤマの先に大きな滝があって、世界がそこで終わっていたとしても気づくことができないのだ。前線基地と戦場を往復し、地を這《は》う虫のように殺される毎日。風が吹いたら生き返り、また、死ぬ。次のループになにもぼくは持っていくことができない。持っていくことができるのは、孤独と、誰にも伝えられない恐怖と、手に染《し》みついたトリガの感覚——。  このクソったれな世界には、どうやらクソったれなルールがあるらしい。  いいだろう。  枕元にあった油性ペンで、左手の甲《こう》に「5」と書いた。  この小さな数字が、ぼくの戦いのはじまりだ。  持っていってやろうじゃないか。この世界で最高のものを次の日に持っていってやる。敵弾を紙一重《かみひとえ》でかわし、ギタイを一撃で屠《ほふ》る。もしもリタ・ヴラタスキがとてつもない戦闘技術を身につけた人間であるなら、無限の時間を使ってぼくもそこまで到達してやろう。  それだけがぼくにできることなら。  なにも変わらぬ毎日を変化させる方法なら。  クソったれな世界に対する、唯一《ゆいいつ》の反抗であるのなら。 [#改ページ] 第二章 Sergeant Ferrell フェレウ軍曹 [#改ページ]    1  ネズミをとるネコがよいネコだと言ったのはチャイナの支配者だったか。  さしずめ戦女神リタ・ヴラタスキは極上のネコで、戦場でうろちょろするだけのぼくは三味線《しゃみせん》皮しか使い道がない野良《のら》ネコなのだろう。リタの毛並みは心配するけれど、初年兵の毛並みを少将ドノが気にかけることはない。  クソったれな基礎訓練《PT》はみっちり三時間つづいた。  もちろん、クソったれな前支《まえささ》えもみっちりだ。  これからどうするかを考えていたせいで、周囲で起きていることにぼくは関心を払っていなかった。US特殊部隊の連中は、三十分ほどで見物に飽きて兵舎へ帰ってしまった。ぼくがじろじろ見なかったためリタが参加するフラグは立たず、したがってPTは最後まで実行されたのである。  これは、ひょっとしたら、「起こる出来事をぼくが変えられる」証拠だと捉《とら》えることができるかもしれない。ぼくがじろじろ見るとリタが参加し、PTは一時間で切り上げになる。たいした理由もなく突然決まったこのPTは、たいした理由もなく突然終了するのだ。  推測があたっているなら、なにをやってもダメだということではなさそうだ。明日の絶望的な戦場でも道が開ける可能性がある。〇・一パーセントだろうと〇・〇一パーセントだろうと、ほんのすこしだけ開いている確率の扉をこじあける戦闘技術を身につけたなら。生き残るために必要なすべての関門をくぐり抜ければ、あるいは、キリヤ・ケイジはまだ見ぬ明後日《あさって》の世界へたどり着ける。  次回のPTではリタをじろじろ眺《なが》めることにしよう。  恨《うら》みのない人間に呪《のろ》いのこもった視線を投げつけるのは気が引けるがしかたない。次のループに効果を持っていけない筋力トレーニングで時間を浪費するより、戦闘プログラムを体に染《し》みこませたほうがいい。  照りつける太陽の下、訓練を終えた兵士たちがぶつくさ文句を言いながら兵舎に向かっている。  ぼくは、靴のヒモを結びなおしている最先任|軍曹《ぐんそう》に歩み寄った。考えた末、戦闘プログラムはフェレウに頼むのが一番だという結論にたどりついたのである。小隊の中でもっとも長く生き残っているというだけでなく、彼は訓練校の教官を務めたこともあるという話だった。  フラットトップの髪から湯気がたちのぼっていた。三時間ぶっ続けのPTを終えたばかりだというのに、いまからトライアスロンの大会に参加してぶっちぎりの一位で完走できそうな顔である。  彼の太い首のつけ根にはひきつったような傷跡がある。機動ジャケットが正式採用になる前は、神経を高速化するチップを兵士はインプラントしたのだそうだ。いまはそんな非効率なことはしなくなったが。フェレウの傷は、二十年という長い期間を戦場で生き残ってきた勲章《くんしょう》でもあるのだった。 「マメでもつくりやがったか」  ヒモを結ぶ姿勢を変えず、フェレウは言った。ブラジル系人特有の舌《した》を巻くバーストイングリッシュだ。 「……いえ」 「ブルったかよ?」 「出撃は平気です。怖くないって言ったら嘘《うそ》になりますけど、逃げたからってどうなるものでもないし……」 「訓練校あがりのハナタレ野郎にしちゃあ上出来だ」 「軍曹はトレーニングをつづけるんですね」 「まあな」 「ぼくも一緒にやらせてもらえないでしょうか?」 「笑えねえ冗談だ」 「冗談でこんなこと言いません」 「死にに行く前の日までクソ暑苦しいジャケットに籠《こ》もるこたなかろうよ。どうせ汗《あせ》流すんなら、ねえちゃんの股《また》ぐらで流してこい」  ぼくの顔が赤らんだ。  フェレウはていねいに靴ヒモを結んでいる。 「話は以上だ。行ってよし」 「どうして……軍曹はどうしてそうしないんですか?」  フェレウはぼくを見あげた。日焼けした肌《はだ》に囲まれたまん丸の目が、二十ミリ徹甲弾《てっこうだん》の破壊力でぼくの心臓を射抜《いぬ》く。太陽がじりじりと肌を焼いている。 「つまりおめえは、女の股ぐらより汗くさいジャケットが好きなホモ野郎だと、おれのことをそう思ってやがるわけだ」 「そ、そんなことないです!」 「まあいい。ここに座れ」  短い髪を彼はばりっと掻《か》きむしり、同じ手で地面を叩《たた》いた。  ぼくは腰をおろす。ふたりの男のあいだを潮風が吹き抜けた。 「イシガキで戦ってたときのことだ」  フェレウは言った。 「もう十年もむかしになるか。当時のジャケットってのがまたひでえシロモンでよ、股ぐらの……ちょうどここんとこの装甲《そうこう》板がこすれて皮がすり剥《む》けやがる。訓練ですり剥けてカサブタになったところが実戦でまたすり剥けだ。痛えもんだから匍匐《ほふく》前進で足を立てるヤツが出てくる。危ないからやめろと言われても痛えんだからしょうがねえ。敵さんから見たらいい的《まと》だ。ヒュードカン! そうやって何人も死んだよ」  日系ブラジル人の血を引くフェレウは、全土の半分以上をギタイに侵略された南アメリカ大陸の出身だった。  戦闘時にぼくらが装着する機動ジャケットは精密機械である。工業製品より農産物のほうが高価なジャパンはともかく、多くの国の兵士は防毒マスクと旧式のロケットランチャだけでギタイと戦うことを余儀《よぎ》なくされている。もちろん、火砲《かほう》や航空機の支援もない。たとえ敵を撃退できたとしても、ナノマシンに肺をやられた兵士たちは戦闘終了後にごろごろと死ぬ。そうやって、人々が暮らしていた土地がすこしずつ死の砂漠となっていくそうである。  フェレウの家族は、ペンペン草も生《は》えなくなった土地を捨て、科学技術という楼閣《ろうかく》に守られた東方の島国に生きる道を求めた。統合|防疫《ぼうえき》軍兵士を家族に持つ者には優先的に移民権が交付される。そういう理由でフェレウは統合防疫軍JPに入隊したのだ。彼の他にも、最前線で戦う装甲化歩兵部隊には移民兵士がたくさんいるのだった。 「おまえさん。斬《き》りおぼえるって言葉、知ってるか?」 「は?」 「刀《かたな》で敵を斬っておぼえる。サムライの言葉だ」 「すみません。聞いたことないです」 「ツカハラ・ボクデン、イトー・イットーサイ、ミヤモト・ムサシ……五百年くらい前にこの国にいたサムライの話なんだがな」 「ムサシはコミックで読んだことあります」 「いまの若い者《もん》はボクデンも知らねえか」  フェレウはふんと息を吐いた。ブラジル出身の彼が、純血のぼくよりジャパンの歴史に詳《くわ》しいのはなんだか不思議な気がした。 「サムライは戦いが商売、おれたちと同じ戦争屋だ。いま言った奴等《やつら》は死ぬまでに敵を何人ぶっ殺したと思う?」 「さあ……五百年たっても名前が残ってるくらいですから、十人や二十人じゃないんでしょうけど」 「ケタが違う。記録が残ってるわけじゃねえが、一人頭三百から五百は殺《や》ってる。それも銃や爆弾を使ってじゃねえ、ロクでもねえ近接兵器で斬り殺してだ。勲章もんの戦果じゃねえか? おい」 「どうやってそんなに」 「一週間にひとりあの世に送りゃあ、十年で五百になる。そうやって奴等は剣豪と呼ばれるほど強くなったのよ」 「よくわからないんですけど、敵を倒すとロールプレイングゲームみたいに強くなるんですか? 強くなるためには訓練しなきゃ……」 「敵は案山子《かかし》じゃねえ。人間だ。自分と同じように刀をぶら下げて、自分と同じように生き残るつもりでいやがる。そういう野郎の首を刎《は》ねとばすんだ。不意を突き、罠《わな》を張り、時にはケツに帆をかけて逃げもする」 「はあ」 「なにをすれば危険か。どうすれば安全に敵の頭をカチ割れるか。結局は実戦で体に染みこませる以外ねえのよ。道場で素振りしかしてなかったフニャチン野郎が、生き残るための剣術を身につけた人間に勝てるわきゃあねえ。そうやって積み重なった死体が五百。ジャパンの歴史に名を刻《きざ》んだ剣客《けんかく》は、みな斬って斬って斬りまくっている」 「それが、斬りおぼえる、ですか?」 「そうだ」 「だったらぼくら兵士はなぜ訓練を受けるんです?」 「いいことに気づきやがったな。兵士にしちゃアタマ良すぎなんじゃねえか、おめえ」 「茶化さないでください」 「ギタイを相手にするにゃ、本当はヘリや戦車が必要なんだよ。だが、ヘリは値段が高いしパイロットの訓練も金がかかる。山と川だらけのジャパンの地形じゃ戦車はたいして役に立たねえ。うじゃうじゃといる人間を機動ジャケットに放りこんで前線に送りだしたほうが効率がいい」 「はあ」 「訓練校で叩きこむのは最低限の防衛技術だ。右も左もわからねえヒヨッコどもが、クソったれな戦場で赤信号を渡っちまわねえようにするためのルールって奴《やつ》よ。右見て左見て、弾が飛んできたらよいこは頭を下げましょうってなもんだ。そのおかげで運がいい奴は命を拾うし、運が悪い奴はやっぱり死ぬ。生き残った運のいい野郎が、実戦からなにかを学んで兵士と呼ばれるモノになっていく」  フェレウは言葉を切った。 「ところでおめえ、なに笑ってやがるんだ?」 「え?」 「おめえの顔だ。ここは笑うとこじゃねえだろうが。実戦を間近《まぢか》にして、頭のネジが二、三本ふっ飛んじまったかよ」  言われて気がついた。  ぼくは、薄笑いを浮かべていたのだった。  一度めの戦場で、基地外リタに助けられたあのクソったれな戦場で、泥にまみれ内臓をケシ炭にして絶望と恐怖に涙を流したあの戦場で、キリヤ・ケイジは「運の悪い奴」だった。  二度めの戦場もそうだ。  戦いから逃げだした三度めも運がよいとは言えなかった。  ぼくは一度も生き残ることができなかった。  だけれど。  なぜかはわからないが、この世界はチャンスをくれた。たった一度の戦闘を運に頼らず実力で生き抜いてみろとばかりに。  基地から逃げようなどという気を起こさぬかぎり、ぼくは訓練と実戦を一日おきに繰り返す。実戦が訓練に勝るというのならかえって好都合だ。いくらでも斬りおぼえることができる。五百年前の剣豪が十年かかって得た実戦をたった一日に凝縮《ぎょうしゅく》することができる。  ぼくの思考を遮断《しゃだん》するようにフェレウは立ちあがった。ぶ厚いてのひらでぽんぽんと尻《しり》をはたく。 「要するにいまさらあせっても無駄ってこった。わかったら、一緒に汗をかいてくれるねえちゃんでも探してこい」 「自分も無駄だと思います。でも——」  フェレウが目を剥いた。ぼくはまくしたてる。 「もしも明日の戦闘を運良く生き残れたら、ぼくはその次の戦闘に行くことになるでしょう。その戦闘に生き残ったらそのまた次に。実戦で知り得た技術を体に染み込ませるため、実戦と実戦の合間にシミュレーション訓練をすれば……そうやって戦闘ごとにひとつずつ生き残る技術を身につけていけたら、生き残る確率は格段に高くなると思います。違いますか?」 「まあ……そうかもしれねえな」 「訓練の習慣をいまからつけても悪いことはないでしょう」 「口の減らねえヒヨッコだ」 「すみません」 「正直、おめえは違う奴だと思っていたんだがな。おれの嗅覚《きゅうかく》も錆《さ》びつきやがったのかもしれねえ」 「違うって、なにがですか?」 「軍隊には三種類の人間がいやがる。生死がかかったギリギリの状況じゃねえと生きた気がしねえジャンキーと、それしか食う方法がねえからしょうがなく兵隊やってる奴。それと、足をすべらせて橋の上から軍隊に落っこっちまった奴だ」 「ぼくは一番最後のパターンですね」 「ああ。そう思ってた」 「軍曹はどれなんですか?」  フェレウは肩をすくめた。 「十五分後に第一装備。場所はここだ」 「あ、はい……完全武装、なんですか?」 「ジャケット兵が訓練すんのに装備がなくてどうすんだタコ。心配しなくても実弾なんか撃たせやしねえ。とっとと着替えてこい!」 「了解しました!」  ぼくは力いっぱい敬礼した。  人間の体というのは不思議なもので、力を出すとき「出せ!」という命令と「出すな!」という命令を同時に出しているそうだ。力のかけすぎで肉体が壊れてしまわないように、人間を動かす|オペレーティング・システム《OS》が自動的に力をセーブしているのである。こうした機能が備わっていない機械——たとえば自動車などは、壁にむかってアクセルを目一杯踏みつけていれば、フロントがぺちゃんこになってエンジンが壊れるまで力を出しつづける。  肉体の限界ぎりぎりの力を必要とする格闘技では、パンチと同時に大声を出す訓練をしたりする。「大声を出せ!」という命令で「力を出すな!」という命令を上書きするのである。こうした訓練を繰り返すと、力のセーブをある程度コントロールできるようになる。それは、つまり、自分の体を破壊する力を手に入れるということだ。  兵士の全身を覆《おお》う機動ジャケットには、人間と体と同じように、自動的に力をセーブしたりバランスをとったりする機能が備わっていた。三百七十キロという握力は、銃把《じゅうは》を握り潰《つぶ》し同僚の骨を砕《くだ》くに十分な威力《いりょく》である。そうした事故が起きないように、機動ジャケットは自動的に力をセーブし、あるいは慣性を打ち消すようにバランスをとったりする。これらの機能を総称してオートバランサと呼ぶ。  オートバランサは一瞬だけ装着者の動作を遅らせると言われている。人間より遙《はる》かに計算速度が速い機械がやることだ。普通の人間では気づかぬほんのわずかな時間である。  だが、その一瞬が戦場では生死の境を分けることがある。  一万人のジャケット兵が参加する作戦を三回やって、とびきり運の悪い奴がひとり遭遇《そうぐう》するかしないかの確率であろうとも、もしかしたら女神に見放された運の悪い奴に自分がなってしまう可能性がある。目の前にギタイが迫ってからオートバランサに愚痴《ぐち》を言ってもはじまらないのだ。だから、戦闘が始まると、古兵《ふるつわもの》のフェレウはオートバランサのスイッチを切る。  訓練校では教えてくれなかった。ぼくは、オートバランサを切った機動ジャケットでずんずんと歩く訓練からはじめなければならなかった。  彼は言う。  思考するまでもなく体が動かなくてはだめだと。  七回繰り返して、やっと、ぼくはまっすぐ走れるようになった。    2  US特殊部隊の管轄《かんかつ》区域に通じる道に二名の歩哨《ほしょう》が立っている。  ぼくの太腿《ふともも》くらいある腕に高速弾ライフルをぶら下げた大男だ。筋肉の鎧《よろい》をひけらかし、彼らは、近寄る者を無言で威圧《いあつ》している。直属の上官の命令しか聞かぬよう訓練されている野郎どもは、雨が降ろうが爆弾が降ろうが持ち場を離れない。  彼らを横目に見てUSとJPの共用ゲートへ向かえば、二周めの繰り返しで脱走に使ったルートにたどりつく。脱走は簡単だ。いまのぼくをもってすれば、ギタイの襲撃《しゅうげき》をくぐり抜けてチバシティーへたどり着くことさえ可能かもしれない。  だが、この[#「この」に傍点]今日のぼくには別の目的があった。  時刻は|一〇二九《ヒトマルフタキュウ》。四つの目の死角となる位置に立ちどまる。ぼくの歩幅は八十センチ。歩哨の真横まで十五歩の距離だ。  上空をカモメが飛んでいる。基地の騒音にまぎれて遠く潮騒《しおさい》が聞こえる。ぼくの体がつくる影が足元にちいさくまとまっている。  人通りはない。  歩哨はぴくりとも動かない。  USの尉官《いかん》を乗せた燃料駆動|車輛《しゃりょう》が通りすぎた。  歩哨が敬礼。  歩きだすのはこのタイミングだ。  三、二、一……。  車輛が三叉路《さんさろ》にさしかかる。  モップを抱えた掃除のおばちゃんがとびだした。  急ブレーキ。エンスト。歩哨が音源に注意を向ける。  その横をぼくはすり抜ける。  筋肉の塊《かたまり》が放射する熱が伝わってくる。この男の膂力《りょりょく》をもってすれば、ぼくのケツの穴に指をつっこんで背骨をまるごと引っこ抜くことだってできる。一瞬だけ、その強大な力に抗《あらが》ってみたい気持ちがぼくの中で胎動《たいどう》する。  この東洋人の初年兵は見かけこそ吹けば飛ぶようなもんだが、中身はけっこうたいしたものなんだぜ。いっちょやってみるか。機動ジャケット用に最適化された戦闘技術が対人間の白兵《はくへい》にどれほど役立つものか。ぼくは兵士としてどれくらい強くなっているのか。目の前の屈強《くっきょう》な男を定規《じょうぎ》にして計測してみるのも一興《いっきょう》じゃないか?  右側の歩哨が振り向いた。  気持ちを抑える。歩く速度は変えない。  わかっている。彼は右から左に体をひねるのだ。その頃には、もうひとりの歩哨のでかい体がつくりだす死角にぼくはするりとすべりこんでいる。周囲を見回した彼がぼくの姿を認識したときには、キリヤ・ケイジという物体は基地の背景に違和感なく溶けこんでいた。 「おい、いまなにか」 「しゃべるな。大尉がこっちを見てる。機嫌が悪そうだ」 「……ファック・ユー」  USが管轄する区域へぼくは侵入をはたした。  目的はUS特殊部隊の機動ジャケットだった。何度か繰り返した結果、JPの部隊に配備されていない武器が必要だという結論にぼくはたどり着いたのである。  標準装備の二十ミリ機銃はギタイ相手に有効な武器というわけではない。ひとりの兵士が携行《けいこう》できる弾丸の重量と、高速移動する敵に当てるための連射速度と反動から導きだしたギリギリの妥協《だきょう》点が二十ミリという口径なのだ。むかしに比べて威力《いりょく》は増しているそうだが、それでもギタイの棘皮《きょくひ》を貫くには五十ミリは欲しい。  扇状《せんじょう》陣形に埋伏《まいふく》した装甲《そうこう》化歩兵部隊がありったけの銃弾を叩《たた》きこみ、敵の動きがにぶったところを火砲や戦車砲等で倒すというのが統合|防疫《ぼうえき》軍の基本戦術だ。実際の戦場で、装甲化歩兵部隊に戦車隊の支援がつくことはほとんどないそうだけれど。ぼくらは、自分たちの手でギタイにとどめを刺さなければならない。  古参《こさん》の兵が最後の切札《きりふだ》にするのは、いつだって左肩から伸びるぶっといパイルだった。こいつならギタイのどてっ腹に拳《こぶし》大の風穴《かざあな》を空《あ》けることができる。ロケットランチャもそれなりに役立つのだが、命中しなかったり、肝心《かんじん》なときにはもう使ってしまっていたりとそんなことが多い。戦場の空気に慣れたぼくも、次第《しだい》に、直径五十七ミリのパイルの威力を頼りにするようになった。  この兵器には、残念なことに欠陥がひとつあった。  ドライバマガジンの装弾数は二十。機銃と違ってマガジンチェンジもなし。泣いても笑っても二十。どんなに節約しても二十。ひとりの兵士は最大で二十の風穴しか空けることができない。炸薬《さくやく》の切れたパイルドライバは、死にかけた吸血鬼の胸に打ち込むのだって苦労するロクでもない杭《くい》ときてやがる。機動ジャケットを設計した人間は、一度の作戦行動で二十回もギタイと白兵戦をして生き残る奴がいるとは想定しなかったのだ。  クソったれ。  ぼくは死んだ。弾切れで何度も死んだ。デッドエンドだ。この腐った結末を回避するには使用制限のない近接兵器が必要だった。  ぼくは、一度だけそれを見たことがあった。  ループがはじまった最初の戦場——  深紅《しんく》のジャケットに身を包んだ戦女神リタ・ヴラタスキは、巨大なバトルアクスを振りまわしていた。斧《おの》の形をしたタングステンカーバイドの塊と言ったほうが正確かもしれない。バトルアクスに弾切れはない。少々|歪《ゆが》んでも使えなくなったりしない。威力は十分。理想的な近接兵器である。  ところが、キリヤ・ケイジは、表向き、実戦を一度も経験していない初年兵なのだった。  機動ジャケットに標準装備されているパイルドライバが気に食わないからとりかえてくれとぼくが言っても誰も聞いてくれない。ヨナバルは笑ったし、フェレウに言ったら鉄拳《てっけん》が飛んできた。小隊長にいたっては直訴《じきそ》が聞こえなかったように無視を決めこんだ。ぼくは、自力で、戦場を生き抜く武器を調達しなければならなかった。  US特殊部隊に帯同《たいどう》してきたジャケット整備部隊のバラックに向かう。  USの管轄にもぐりこんでから五分後、ぼくは、ひとりの整備兵がモンキースパナを手にうなっているところにたどりついた。  海から押し寄せる潮《しお》の香りをオイルのにおいが押しのけている場所だった。基地を包む男どものざわめきもここでは聞こえない。人類の敵と戦う鋼鉄の兵器たちが、バラック奥の暗がりでしばしの休息にうたたねしている。  モンキースパナを握っている女性の名はシャスタ・レイル。民間企業から派遣《はけん》された技術者である。階級は中隊長と同格の中尉待遇で、ぼくよりずっと偉い。盗み見た資料によれば、身長百五十二センチ、体重三十七キロ。視力は左右とも〇・〇六。好物はパッションフルーツケーキ。アメリカンネイティブの血を引く黒髪を一本のみつあみにまとめている。  リタを山猫に例《たと》えるとしたら、彼女を表わす動物は餌《えさ》となる運命のウサギというところだ。前線基地でオイルにまみれるよりも、安全で暖かな部屋でアメリカン・コメディーでも見ながらプレッツェルを頬張《ほおば》っているほうが似合う。  ぼくは、できるだけそっと声をかけた。 「こんにちは」 「ひゃ……ひゃあ!」  驚かせてしまった。  シャスタは度の強いメガネをコンクリートフロアに落とした。  じたばた。じたばた。  ……見つけられないらしい。メガネを探すなら、モンキースパナを手放してから両手で探せばよいと思うのだが、彼女は片手でフロアを探っている。飛び級で入ったMITをトップの成績で卒業して、研究室経由で防衛産業に従事、最新型機動ジャケットの設計に関《かか》わったあげくガンメタリックレッドに輝く特別な機動ジャケットをいじるために統合防疫軍入りしたとびきり優秀な技術者にはどうやっても見えない。日曜夕方にやっている長寿アニメ番組のあわてんぼ姉さんでも、もうすこし頭のよさそうな行動をとるだろう。  虫メガネのレンズがふたつくっついたようなメガネをぼくは拾いあげた。 「落としたよ」 「どなたかは知りませんがありがとうございます」 「どういたしまして」  油性ペンでぐりぐりと塗り潰《つぶ》した瞳《ひとみ》で、シャスタはぼくに視線をそそぐ。 「ええと……どなたでしょうか?」 「キリヤ・ケイジ」 「ごていねいにどうも。わたしはシャスタ・レイルです」  階級と所属をぼくはわざと言わない。シャスタはぺこりと頭を下げた。 「……って、そんなことではなくてですね、一見殺風景なバラックに見えますけれど、実際そうなんですけれどそれでもここは軍事機密を扱っているところなので、許可証のないかたは立ち入りを禁止されているんですよ」 「知ってる」 「そうですか。よかった」 「きみに用があって来たんだ」 「わ、わたし! ですか? もうしわけありませんけれどそういうのは、あのちょっとご遠慮《えんりょ》させていただきたいのですけれどその、ご好意はたいへんにうれしいと思っておりますがはい、あなたが嫌とかじゃなくてですね……整備も終わってませんし……」 「まだお昼前だけど」 「夜までかかる予定なんです!」 「いや、あのね」 「さっきから同じ部品をつけたり外したりしているように見えるでしょうが、いえ実際にそうなんですけど、本当は忙しいんです。本当なんです!」  みつあみをぶるんぶるんと振ってシャスタは力説した。かなた彼女はなにやら勘違いしている。このまままかせていたら地平線の彼方までずれていきそうな話を、ぼくは強引に引き戻すことにした。 「そのジャケット、外部記憶装置が故障してるんだって?」 「はいそうで……って、なんでご存知なんですか?」 「外部記憶装置なんて実際の戦場じゃ滅多《めった》に使わない。なのに制御《せいぎょ》用のカスタムチップは軍事機密扱いで、軍の倉庫から持ち出すにはいちいち書類を書かなきゃならない。ああ、クソ面倒くさい。嫌だって言ってるのにあのハゲオヤジはいつもわたしをナンパしようとするし、どうしてくれよう。いっそのことJP部隊の機動ジャケットからこっそり盗んでやろうか——」 「ぬ、盗むだなんて、そ、そんなこと考えてません!」 「本当に?」 「ほんとうですというか、それはすこしくらいなら考えたかもしれませんけれど、実際にはまだなにもしてませんし……なんであなたがそんなことまで知ってるんですか!」  ぼくはにやりと笑みを浮かべた。ポケットから、ビニール袋に密封されたシリコンチップをとりだす。 「ところがなぜか、ぼくはそのチップを持っている」 「く、ください!」 「どうしようかな」  チップを持った手をぼくは高くさしあげた。シャスタはぴょんぴょんと跳《は》ねてとろうとするが、百五十二センチの彼女はどうがんばっても伸ばしたぼくの手に届かない。彼女の服に染《し》みついたオイルのにおいが鼻腔をくすぐった。 「いじわるしないでくださいよう」  ぴょんぴょん。 「手に入れるの、すごく苦労したんだよな」 「お願いです。くださいよう!」  ぴょん。 「あげてもいいけど、条件がある」 「じょ、条件ですか?」  ごくり。  武骨《ぶこつ》なモンキースパナを彼女は胸の前できつく握りしめた。ツナギに隠された両のふくらみが押し潰される。特殊部隊の野獣《やじゅう》どもに年がら年中ひやかされて、彼女はすっかり被害者意識が身についてしまったらしい。こんな反応をしていればひやかしたくなる気もわからないではないけれど。  シリコンチップを持った手で、バラック奥のケージにくくりつけてある巨大なバトルアクスをぼくは指さした。ひとさし指が示すものがすぐには理解できない様子で、シャスタは、しばらくきょろきょろとしていた。 「あいつを借りに来たんだ」 「わたしの視力がまた悪くなったのでなければ、あれはリタのバトルアクスだと思うのですけれど……」 「肯定だ」 「もしかしてあなたも装甲化歩兵部隊なんですか?」 「JPの部隊だよ」 「あの……ごめんなさいというか、こういうことを言うのは本当に心苦しいのですけれど、リタの真似《まね》をしてもケガするだけですよ」 「貸せないと?」 「本当に必要ならさしあげます。あんなのはただの金属の塊ですし、予備だっていくらでもありますから。最初のときなんて、リタに言われて、いらなくなった爆撃機の主翼からわたしが削《けず》りだしたんです」 「なら、なんでだめなんだ?」 「……死にますよ」 「使わなくても、死ぬときは死ぬ」 「どうしても欲しいんですか」 「ああ。どうしても、だ」  シャスタはしばらく黙っていた。モンキースパナをぞうきんのように握りしめ、うつむきがちに一点を見つめている。みだれた前髪が汗《あせ》とオイルで額《ひたい》にはりついてた。  彼女は言った。 「北アフリカに行ったときのことです。現地でいちばん優秀な部隊の、その中でもいちばん優秀な人があなたと同じことを言いました。そのときもわたしは忠告したんですけれど、むこうの部隊の面子《めんつ》とかいろいろ複雑な事情があって止めきれませんでした」 「死んだのか?」 「一命はとりとめましたが、兵士はつづけられなくなりました。いまでも、そのときのことをわたしはすごく後悔しています」 「きみのせいじゃない」 「彼はギタイと戦って負傷したんじゃないです。慣性ってわかりますか?」 「一応ハイスクールは出てる」 「あのバトルアクスは二百キロあります。機動ジャケットの三百七十キロの握力はバトルアクスを離しませんが、筋力強化されているといっても慣性力は変わりません。彼は、アクスを振りまわしたときに背骨を痛めてしまった。機動ジャケットが振りまわす二百キロの物体は、装着者の体をねじ切ることだってできるんです」  彼女の話はよくわかった。ぼくに必要なのはまさにその慣性なのだ。重量のあるものを振りまわすから、固い棘皮に守られたギタイを一刀両断《いっとうりょうだん》できる。それがどれほど使いづらい代物《しろもの》であろうとも。 「リタは特別なんです」 「知ってる」 「本当の特別なんです。彼女はオートバランサをまったく使ってません。戦闘のときに装置を切ってるんじゃないんです。取り付けてもいません。こんなことをしているのはウチの部隊でもリタだけです。統合防疫軍USの精鋭を集めた特殊部隊の中でも、とび抜けてるんです」 「オートバランサならだいぶ前からぼくも使ってない。そうか。取り外すってのはいい案だ。その分軽くなるものな」 「自分も特別だと思っているんですか?」 「そんなことない。逆立ちしてもぼくはリタ・ヴラタスキにかなわないよ」 「はじめて会ったときリタが言った言葉をわたしはいまでも憶《おぼ》えています。戦争のある世界に生まれて自分は幸せだって、彼女はそう言ったんです。そんなこと、あなたは言えますか?」  ぶ厚いレンズ越しにシャスタがぼくを見つめた。真剣な表情だった。黒くて大きな瞳を、ぼくは無言で見つめ返す。 「あ……で、でも、べつにリタが怖いってわけじゃないんですよ。ほんとに。ほんとですっ!」 「ああ。わかってる。誤解されがちだが、リタ・ヴラタスキは冷たい人間じゃない」  シャスタはほっとしたようだ。 「あ、あなたはなぜバトルアクスにこだわるんですか?」 「こだわってはいないと思う。パイルドライバより役に立ちそうな武器がそこにあるってだけの理由だ。スピアでもカトラスでもなんでもよかった。戦場で生き残るために、二十回しか使えないあの近接兵器をぼくはどうにかしなきゃならないんだ」 「あなたは……」  シャスタは言葉を切った。モンキースパナを握りしめていた手から力が抜けていた。 「なにかな?」 「あなたは、不思議な人ですね」 「そうかな」 「わたしがはじめてアクスを削りだしたとき、リタも同じようなことを言ったような気がします」 「戦女神《ヴァルキリー》と同じとは光栄だね」 「言っておきますけど、ものすごく使いにくい武器ですよ」 「練習する時間はいくらでもあるんだ」 「いままで、ジャケット部隊には二種類の人間しかいないとわたしは思ってました。なにも知らないがゆえにリタに追いつけると考えている人と、リタの凄《すご》さを実感して自分には無理だと考える人。絶望的な距離を知って、なおもそれを埋めようとする人ははじめてです」  戦場を知れば知るほど、リタ・ヴラタスキの凄さは身に染みるのだ。  クソったれなPTに彼女を巻きこむことになった最初のループで、遠慮のない視線を注ぐことができたのは、ぼくがなにも知らない初年兵だったからである。何度もの繰り返しを乗り越え、いっぱしのジャケット兵となったいまは、むしろ彼女との距離は遠くなったと感じている。無限の時間がなかったらあきらめていた。  したっと華麗《かれい》に跳《と》びあがり、シャスタはぼくの手からシリコンチップをかすめとった。 「ちょっと待っててください。ぱぱぱっと交換しちゃったら、書類を書いてあげます。持ってっていいですよ」 「ありがとう」 「それと……ひとつ聞いていいですか?」 「どうぞ」 「その左手に書いてある、四十七って数字はなにか意味があるんですか?」  ぼくは返答に窮《きゅう》した。  基地の中で暮らすジャケット兵が、油性ペンで左手の甲《こう》に数字を書く理由をすぐには思いつけなかったのだ。 「あ、あの……なんか悪いこと聞いちゃいました?」 「カレンダーに×印をつけたりするだろ。あれと似たようなもんだ」 「手に書いてしまうなんてとっても大切な日なんですね。あと四十七日で帰還《きかん》できるとか、それとも恋人の誕生日?」 「……どちらかというと、命日に近いかな」  シャスタは黙りこんだ。  ぼくは、バトルアクスを手に入れた。    3  〇六〇〇、起床。  〇六〇三、ヨナバルのバカ話にはつきあわない。  〇六一〇、倉庫からカスタムチップをちょろまかす。  〇六三〇、朝食。  〇七三〇、基本的な体の動かしかたの反復練習。  〇九〇〇、クソったれなPTをしながらイメージトレーニング。  一〇三〇、シャスタからバトルアクスを借りうける。  一一三〇、昼食。  一三〇〇、前日の戦闘の反省をふまえたトレーニング(機動ジャケット)。  一五〇〇、フェレウと合流し、実戦形式のトレーニング(機動ジャケット)。  一七四五、夕食。  一八三〇、小隊ミーティング。  一九〇〇、ヨナバルたちのどんちゃん騒ぎに参加。  二〇〇〇、機動ジャケットの状態をチェック。  二二〇〇、就寝。  翌〇一一二、ヨナバルをベッドの上段に押しあげる。  ぼくの「一日め」はだいたいこんな感じで進んだ。  訓練以外のほとんどがルーチンワークである。毎日やっていると慣れてくるもので、ぼくはあくびをしながらでも警備兵の横を通り抜けることができるようになった。戦争のプロフェッショナルになる前に稀代《きたい》の大泥棒になってしまわないかと心配だ。盗んでも翌々日にはリセットされるイカれた世界ではなんの役にも立たない才能だが。  日常生活で発生する事象はどのループでもあまり違いがなかった。ぼくがなにか行動すればいつもと違う出来事が起きるが、なにもしなければなにも起こらない。アドリブを禁止された舞台演劇のように、クソったれな世界はいつもと変わらぬ出撃前日を演じつづけている。  一一三六《ヒトヒトサンロク》、ぼくは第二食堂にいた。  給仕《きゅうじ》のおばちゃんは、いつもとまったく同じ量のオニオンスープをまったく同じタイミングでまったく同じ皿によそった。いつもと同じ軌跡《きせき》を描いてとんだ飛沫《しぶき》を腕をひょいと動かして避ける。野郎どもの声のあいだをすり抜け、ぼくはいつもと同じ席に腰をおろした。  三列前の椅子《いす》にはリタ・ヴラタスキが座って、ぼくに背中を向けて食事をとっていた。彼女がいるからこの時間に食事をとっているわけではないのだが、なんとなくそうなってしまった。毎日斜め後ろの姿を見ながら食べていれば、特に理由がなくても日常の風景になってしまうものだ。  本来なら、第二食堂は准士官《じゅんしかん》であるリタが来る場所ではない。食事はたしかにおいしいけれど、士官専用のスカイラウンジをひとりで占拠して寝起きする我儘《わがまま》放題の女王様を満足させるほど上等ってわけでもない。USの部隊は専用のコックを連れてきているという話だし、彼女の来訪は二重の謎である。そのうえ、ついさっきネズミを丸飲みにしてきたがなにか? な大蛇《だいじゃ》の雰囲気《ふんいき》を身にまとっている。  そんなわけで、戦場の女神がひとりで食事をしているというのに、話しかける者もなく、彼女の周囲はいつもぽっかりと空《あ》いているのだった。  リタ・ヴラタスキの食べかたは子供っぽかった。口の端についたスープをぺろりとなめあげたり、箸《はし》の先で皿に絵を描いたりする。  箸を使い慣れていない彼女は、一一四三《ヒトヒトヨンサン》に豆をつまみそこねる。転がる。豆はトレイの上で一回バウンド、テーブルの上で二回めのバウンド、右回りに回転しながらコンクリートの床へ落下をはじめる。そのとき、神速《しんそく》の左手がしゅぱっと伸び、空中の豆をつまんでそのまま口の中へ放り込む。この間〇・二秒弱。西部開拓時代に生まれていたらビリー・ザ・キッドより拳銃を抜くのが速かったかもしれないし、サムライの時代に生まれていたらササキ・コジローの燕返《つばめがえ》しを会得《えとく》していたかもしれない。食事のときでも戦場の牝犬《ビッチ》の本質は戦場の牝犬だった。  この今日も彼女は梅干しを食べようとしていた。つけあわせのフルーツかなにかだと勘違《かんちが》いしてるらしく、二、三度箸でつついたあと、丸ごと口に放りこもうとしている。  ぱく。  ああ、やってしまった。  五十七ミリ速射砲をどてっ腹にくらったように、リタは体を折り曲げた。ひくひくと背中が震えている。錆色《さびいろ》の髪の一本一本が逆立って見える。それでも吐きださないのだからいい根性だ。  飲みこんだ。もちろん、種《たね》ごと。  親の仇《かたき》に会ったみたいな勢いでコップの水を飲んでいる。  すくなくとも二十二歳にはなっているはずだが、仕草《しぐさ》を観察していると彼女は年齢よりずっと幼く見えた。埃《ほこり》色の軍服を着ているからダメなので、街の女の子が着ているひらひらの服でも着せたらそれなりにかわいげのある女性なんじゃないかとか、ぼくはそんなことを考えた。  しかしこのメシはどうにもならないな。  まったく味がわからない。 「兄ちゃん、楽しそうだな」  頭上で声がした。  箸を手にした姿勢で視線だけ移動させると、標高二メートルあたりにフラットトップのごつい顔があった。人類より恐竜の血が多く流れている顔である。おまえの先祖は絶対ヴェロキラブトルだ。いま決めた。  肩に彫《ほ》ってあるタトゥーを見てぼくはげんなりする。王冠をかぶった狼《おおかみ》だった。装甲《そうこう》化歩兵第四中隊。ラグビーの試合のせいで、ぼくが所属する中隊と彼らは仲が悪い。  機械的に、ぼくは箸を口へ運ぶ。  げじげじといい勝負の眉《まゆ》がぴくりと跳《は》ねあがった。 「おれは楽しいか? って聞いてるんだ」 「おかげさまで毎日が楽しいよ」 「じゃあなんで、てめえは便所のタワシみたいな顔でメシをパクついてやがるんだ」  だたっぴろい第二食堂のテーブルにまばらな兵が着いていた。調理場から、たぶんかぐわしい匂《にお》いが漂い出ている。蛍光灯がつくりだす人工的な灯《あか》りが、ヘビーデューティーな食器に盛られたエビフライを照らしだしていた。  うまいかまずいかで言えば、統合|防疫《ぼうえき》軍が用意するメシはうまい部類に入る。もともと、「食う寝る戦う」のみっつしかすることがないところだ。食事がまずいだけで兵の士気はがた落ちになる。なかでも、フラワーライン前線基地の食事はかなりイケるほうだとヨナバルは言っていた。  最初に口にしたとき、この昼食はとてもおいしく感じたような気がする。主観時間で五カ月も前のことなのでよくおぼえていないけれど。繰り返しがはじまって一カ月くらいの頃は、わざとめちゃくちゃな調味料をかけて食べたりもした。合わない調味料がつくりだす猛烈なまずさが、食べものの存在をかろうじてぼくに教えてくれたのだ。  それもまあ、過去の話だ。  毎日毎日八十回も連続で同じメシを食っていれば、三ツ星レストランのシェフがつくった料理だって味に違いは感じなくなる。いまのぼくにとって、エネルギー補給以外の意味を食事に見いだすことは困難だ。 「ぼくの顔で気分を害したのならあやまる」 「おいおい。それじゃあまるでおれが難癖《なんくせ》をつけてるみたいじゃねえか」 「急いでるんだ」  皿に残ったものを口の中に詰めこむ。  野球のグローブと同じ大きさのてのひらがテーブルを叩《たた》いた。どんと音がした。おばちゃんの魔手から逃がれたシャツにオニオンスープの飛沫《しぶき》が染《し》みをつくった。ぼくは気にしない。どんなにしつこい汚れだって、どうせ洗濯するまでもなく明日には消えてしまうのだから。 「第十七中隊のジェントルマン様は第四中隊とは口も利《き》けないってか?」  男が唸《うな》る。やっかいなフラグを立ててしまったことにぼくは気づいた。  直前の戦闘でフェレウを殺してしまったせいで、このループのぼくはとびきり憂鬱《ゆううつ》だった。血反吐《ちへど》を吐いて彼がくたばってから主観時間で五時間もたっていない。もちろんぼくもKIAだったのだけれど、そんなのはささいなことだ。クソったれな初年兵をかばって、先にフェレウが死んだことが憂鬱の種なのである。そいつが、最近ぼくを悩ませる偏頭痛《へんずつう》に拍車をかけていた。  普段とまったく変わらないリタの姿を眺《なが》めて気をまぎらわせていたつもりだったが、ぼくの顔は自分で考えているより暗く湿っていたらしい。いままでのループでは起きなかった事態が発生するほどに。  トレイを持って立ちあがる。  己《おのれ》の肉体を壁にして大男が立ちふさがった。  ぼくらのまわりに乱闘を期待する野次馬《やじうま》が集まりはじめていた。時刻は一一四八《ヒトヒトヨンハチ》。ここでロスするとスケジュールに響《ひび》く。無限にある時間は、時間を無駄に使えるということとイコールではない。失った一時間は、一時間分の弱さとなって戦場でぼくに跳ね返ってくる。 「逃げるのかよチキン野郎」  男の声がびりびりと響く。  リタ・ヴラタスキは振り向いて、ぼくのことをじっと見ていた。PTで自分のことを睨《にら》みつけていた初年兵が同じ食堂にいたことにはじめて気づいた様子だ。  ここでリタの目を見返せば、PTや最初の戦場でそうしてくれたように、目の前のトラブルもなんとかしてくれるような気がした。助けを求める視線に彼女は弱い。ああ見えて人情家なのである。  助力を求めたら彼女はどうするだろう。頭から湯気を出している男の気勢を削《そ》ぐためにグリーン・ティーの話でもするのだろうか。  ぼくはくすりと笑った。 「てめえ。なにがおかしいんだ!」 「きみには関係ないことだ」  リタから視線を外した。  ここにいるキリヤ・ケイジは、右も左もわからずうろちょろする初年兵ではなかった。見ためはどこも変わっていないが、中身は七十九回の戦場を駆け抜けた古参《こさん》兵である。自分の問題は自分で解決できるのだ。PTで迷惑をかけて、予備のバトルアクスを口先三寸《くちさきさんずん》で巻きあげて、そのうえランチタイムまで迷惑をかけるわけにはいかない。 「ふざけやがって!」 「悪いけど、ここで遊んでいる時間はないんだ」 「てめえの股《また》ぐらにぶら下がってるもんはなんだ? 空気の詰まったピンポン玉か?」 「開いて見たことがないからわからないな」 「てめえ!」 「ちょっと、よしなさいよ!」  艶《つや》っぽい声がぼくらの口論を遮《さえぎ》った。リタの甲高《かんだか》い声ではない。救いの女神は意外なところからやってきた。  振り向くと、テーブルの横に浅黒い肌《はだ》をした女性が立っていた。ぼくの視界の六十パーセント近くを、エプロンに包まれた大きめの胸が不法占拠している。ほこほこと湯気をたてるエビフライを菜箸《さいばし》につまんだ状態で、エプロンの彼女はぼくと男のあいだに割って入る。レイチェル・キサラギだった。 「ケンカはやめて。ここは食事をするところで、殴り合いをする場所じゃないわ」 「礼儀を知らねえ若造《わかぞう》に社会常識を教えてやってるだけじゃねえか」 「やりすぎよ」 「なんだよ。あんなまずそうな顔はフラワーラインができて以来見たことがねえってレイチェルが言うからおれはよ」 「それはそうだけど……」  レイチェルはちらりとぼくを見た。  カート一杯のジャガイモを地面にぶちまけても怒った顔ひとつしない彼女が気に触ったというのだから、ぼくの顔は相当なものだったのだろう。自分につきまとっていたヨナバル・ジンの隣にいつもいた初年兵をからかう気持ちもすこしはあったのかもしれない。彼女を非難する気にはなれなかった。転がしたジャガイモ同様、これはキリヤ・ケイジが立ててしまったフラグで、責任はキリヤ・ケイジにある。  ぼくの認識よりずっとレイチェルは人気者のようだった。男が言いがかりをつけてきた原因も、部隊間の対立だけでなく、この女性の気を引くという意味があるのだと思う。ふとすればコーヒーステインパターンの砂漠|迷彩《めいさい》で染まってしまう基地の中で、彼女みたいな女性は時として野郎どもの心の寄りどころとなる。 「いいのよ。あれはあたしの言いすぎだった」  大男と向かい合い、レイチェルは背中の後ろでしっしっとぼくを追い払う仕草をした。 「ほら。特別にこのエビフライをあげるから機嫌をなおして」 「おれはよかない。気にいらねえ」 「よしなさいってば」 「なんとか言ったらどうなんだよ、小僧!」  レイチェルの肩越しに、筋肉に覆《おお》われた腕で男が小突《こづ》いてくる。  反射的に体が動いた。  右足を時計回り、左足を反時計回り。ずんずん。常《つね》に踏みしめるよう移動するのが機動ジャケットに最適化された歩法だ。左腕と胸を使って男の腕をすべらせる。皿を落とさぬよう右手のトレイを高く持ちあげる。重心は体の中心線からずらさない。レイチェルがエビフライを落とす。空中を泳ぐエビの尻尾《しっぽ》を床につく前に捕獲《ほかく》。  男がバランスをくずした。  二歩、三歩とたたらを踏み、正面に座っていた兵士の昼食を盛大にひっくり返して止まった。  ぼくはトレイを片手に立っている。 「落としたよ」  レイチェルにエビフライを返した。  野次馬が喝采《かっさい》をあげた。  男の首筋《くびすじ》が赤く染まった。 「野郎!」  突っこんできた。  ああ、殴ってきやがった。ひどい奴《やつ》だ。  避けるか反撃するかそれともケツをまくって逃げだすか、数瞬のあいだ考える余裕がぼくにはあった。  ジャケット兵としての訓練を受けた男の右ストレートは鋭い切れ味があったが、ギタイの攻撃に比べれば止まっているに等しい。彼の攻撃は相手を痛めつけるものであって、自分の命を狙う敵に致命傷を与えるものではないのだ。  無駄な力が売るほど込もった腕がぼくの鼻先を通りすぎていく。  足元が留守だ。  ここで一回、ぼくはきみを殺すことができた。  必殺のストレートを外した男は構えなおした。鼻息が荒い。ボクシングライクのフットワークで跳《と》びはねたりしている。 「逃げてねえでかかってこいよ小僧!」  なんだよ。まだやるのか。  きみとぼくの間にあるマリアナ海溝《かいこう》より深い実力差に、いまの空振りで気づけなかったのか? まいったな。  左フック。ぼくは半歩後退する。ずん。  またパンチ。後退。二回、三回、四回。隙《すき》が多すぎて数えるのもバカバカしかった。一分くれれば、すくなくともこいつを十回殺してみせる。しかし、それはぼくの仕事ではない。ぼくの仕事は、血の気は多いが有能なジャケット兵を緊急治療《ER》送りにすることではなく、人類の敵を奴等《やつら》専用の地獄に送りこむことだ。  男の拳《こぶし》が空振りするたび、ぼくらをとり囲んだ男どもが喚声《かんせい》をあげた。なにやってんだかすりもしねえじゃねえか。細っこいのも逃げんな。殴れ! 殴れ! 殴れ! ひゃっほう。誰か出口見張れ、うるさいのを入れんなよ。おれはでかいのに十ドル! 細いのに二十ドル! この野郎どさくさにまぎれておれのエビフライを! 野次馬がヒートアップすればするほど男の腕には余計な力が入り、それだけぼくに当たらなくなった。  フェレウがよく言う言葉がある。  一秒を切り刻《きざ》め。  最初は意味がわからなかった。一秒は一秒であり、伸びたり縮《ちぢ》んだりはしないものだと思っていた。  時間は伸びない。時間は無限に分割することが可能だ。  脳の奥底にあるスイッチを入れれば、一秒は、映画のフィルムのようにコマ送りで分割できる。現実世界にいま映写されているコマから十コマ先の映像を予測し、対策を立て、最善の状態に。それらすべてを無意識のレベルでやる。無限に切り刻まれた時間の存在を知らぬ人間は、戦場ではアテにならない。  攻撃を避けるのは簡単だった。だが、また余計なフラグを立ててしまうとやっかいだ。わざわざ時間をずらしているというのに、もうすぐ第十七中隊の連中が食堂にやってきてしまう。  彼らが登場する前に事態を収束《しゅうそく》させなければならない。  よくよく考えた末、ぼくは素直に殴られて時間を節約する道を選択した。  誤算だったのは、レイチェルが男を止めようととびだしたことだ。右のパンチの軌跡が微妙にずれ、頬を軽くなでて終わる予定だった拳がぼくの顎《あご》を正確に捉《とら》えた。歯のあたりから鼻の奥に向けて熱の点が駆け抜ける。トレイ上の皿が宙を舞う。視界の端に、食堂から出ていくリタの後ろ姿が映った。この痛みは次のときの教訓としよう。ぼくは意識を失い、泥の眠りの中をさまよい、そして——  目をさました。  気づくと、パイプ椅子を並べてつくった簡易ベッドの上に寝そべっていた。濡《ぬ》れた女物のハンカチが顔の上に乗っている。ほのかに、柑橘系のいい香りがした。 「気がついた?」  ぼくは調理場にいた。  大型の換気扇《かんきせん》がうなりをあげ、たちのぼる蒸気をかたはしから吸いあげていた。時代劇に出てくる棺桶《かんおけ》くらいのサイズのどでかい鍋《なべ》の中で、オリーブ色の液体がふつふつと煮たっている。壁には一週間分の献立《こんだて》表が貼《は》ってある。手書き文字のてっぺんに、ポスターから切り抜いたらしい男の顔があった。  輝く白い歯を穴のあくほど見つめて、ぼくはやっと気づく。装甲化歩兵第十七中隊兵舎のベッド横に貼ってあるマッチョ男の顔だった。男くさい兵舎の壁を脱出してこんなところで調理のおばちゃんたちに笑顔をふりまいているとは、マッチョの顔もなかなか味なことをする。  レイチェルは、ジャガイモの皮をくるりと剥《む》いては、これまたクソでかいバスケットに放りこんでいた。三回めの繰り返しでぼくが頭から突っこんだジャガイモである。あのジャガイモが、七十九回食ったことのあるマッシュポテトになるのだ。  彼女の他に調理人の姿は見えない。腕に自信をもっているだけあって、レイチェルは相当手をかけて野郎どもの食事を用意している様子だった。  ぼくは背を起こす。いくどとなく空気を噛《か》みしめてみる。見事なタイミングの拳をくらったせいで、顎の骨がずれてしまったような感じがした。 「ごめんなさいね。けして悪い人じゃないのよ」  レイチェルが言った。 「わかってる」 「見かけによらず大人なのね」 「面倒《めんどう》を避けただけだ」  ぼくは肩をすくめた。  出撃前日のうわついた雰囲気。とびきり美人の彼女にいいところを見せたい。ついでにぼくのひどい顔。どれかひとつの条件が欠けても男がケンカをふっかけることはなかった。あの諍《いさか》いはぼくのせいでもある。  彼女は笑ったようだ。 「平和主義者? めずらしいわね。兵隊さんなのに」 「戦いは戦場だけでたくさんだよ」 「だからやっちゃわなかったの?」 「どういう意味だ」 「あなたのほうが強かったもの。殴り返せるのを我慢したように見えたわ」  女性にしては背の高いレイチェルをぼくは注意深く観察した。  フラワーラインに前線基地ができたのは三年前だ。栄養士の資格をとってからここに来たのなら、最低でもぼくと四歳離れている。にもかかわらず、彼女はそれほど年上には見えなかった。無理に若づくりしているわけではないが、浅黒い肌がまとう躍動《やくどう》感と、健康そうな笑顔がつくりだす活気みたいなものが年齢を感じさせなくしているのだった。  そんなところが、ぼくが好きだった司書のあの人に、すこしだけ似ていた。かつてハイスクールの生徒だったぼくは、はじける笑顔にだまくらかされて夏の一番暑い時期に図書館の虫干しを手伝ったりしたものだ。  ぼくは言った。 「人生は石に刻むものだ。何度でも書きなおせる紙に書いたって意味はない」 「不思議なことを言うのね」 「そうかな」 「あなた、恋人はいるの?」 「いいや」 「明日出撃するんでしょ?」 「そうだ」 「今夜なら空いてるわ」  緑色の瞳《ひとみ》をぼくはのぞきこんだ。  レイチェルはあせったようだ。 「誤解しないでね。あたし、誰にでもこんなことを言うわけじゃないのよ」  知っている。ヨナバルを鼻であしらった彼女だ。あんなガードの固い女はいまどきそうそういないと、一週間以上もぼくは愚痴《ぐち》を聞かされたのである。ヨナバルの交際範囲がかたよっているだけだという気もしなくはないが。 「いま、何時かな?」 「もうすぐ三時ね。三時間も気絶してたのよ」  |一五〇〇《ヒトゴマルマル》。フェレウとトレーニングをする時間だった。繰り返す時間|牢《ろう》の住人には、やらなければならないことが山ほどあった。  前のループの戦場でしたあの動き。あの動きのせいでフェレウと小隊長が死んだ。ぼくをかばって死んだ。ぼくのスタンドプレイが原因だ。フェレウのジャケットの内側に、隅《すみ》が焼け焦《こ》げた家族の写真が貼ってあった。やたらと多い弟妹に囲まれたフェレウがブラジルの強烈な日射しの下で笑顔を浮かべていた。  キリヤ・ケイジは、人並みはずれた才能があるわけでもない平凡な人間である。自分にできること、できないこと。いまはできないけれどイメージして訓練すれば何ループか後にはできるようになることを取捨選択しなければならない。さんざん世話になった恩人を、自分を過信した大バカ野郎のミスで殺してしまうのはもうたくさんだった。  ただ一度きりの人生だったら、あるいは、出撃前の大切な時間を彼女とともに過ごすことを選択したかもしれない。だけれど、 「悪いけど、他をあたってくれ」  汗くさいトレーニングハイの軍曹《ぐんそう》が待つ演習場に向けて、ぼくは走りだした。 「バカ! くたばっちまえ!」  背後で罵声《ばせい》が聞こえた。    4  九十九周め。  戦闘開始四十五分で戦死《KIA》。    5  百十周め。  ヨナバルが原因で戦線がくずれた。 「ケイジ、あの小説の犯人は……もずくが…お……食いたい」  そう言って奴《やつ》は死んだ。  戦闘開始五十七分でKIA。    6  百二十三周め。  五十周くらいからはじまった偏頭痛《へんずつう》がひどい。原因は不明。軍医からもらった頭痛薬はまったく効かない。戦場はともかく、この先ずっと頭痛とつきあっていかねばならないと考えると暗鬱《あんうつ》たる気分になる。  戦闘開始六十一分でKIA。    7  百五十四周め。  戦闘開始八十分で意識が途切れた。ぼくは死ななかったが、ループを抜けだすことはできなかった。  まあいい。  そういうことなら、それはそれでしかたないだろう。    8  百五十八周めのことだった。  ようやくタングステンカーバイドのバトルアクスにも使い慣れ、ぼくは、手首をちょいとひねるだけでギタイの棘皮《きょくひ》を粉微塵《こなみじん》にできるようになった。  頑丈《がんじょう》な敵を粉砕するため、人類はいままで高周波で振動するブレードだの秒速千五百メートルで射出されるパイルだのを開発してきた。考えだされた兵器の中には、モンロー効果を利用した爆殺近接兵器まであったという話だ。だが、射出型兵器は炸薬《さくやく》切れになるしジャムるし故障する。繊細《せんさい》なブレードは、切りつける角度をまちがえると折れてしまう。  タングステンカーバイドのバトルアクスは戦場の女王リタ・ヴラタスキが使いだしたものだ。  こいつはよくできている。アクチュエータからひねりだした慣性重量がそのまま破壊力になる。多少はひん曲がったり欠けたりするが、曲がったからといって武器としての価値は低下しない。鋭い刃《やいば》がついているわけではないのもポイントである。近接兵器は、戦場では殴打《おうだ》として使うほうが圧倒的に多いのだ。日本刀などはあまりにも切れ味がよく斬《き》った体から抜けなくなったりしたので、合戦の前には石をぶったたいて刃を殺していったという逸話《いつわ》がある。リタのアクスは、まさに、戦場で鍛《きた》えられた武器なのだった。  スリープ状態の機動ジャケットに身を包み、ぼくらの小隊はコトイウシ島の北端に埋伏《まいふく》していた。  小隊長が戦闘開始の合図を発令するまで五分。何度繰り返しても一番緊張する瞬間だ。ヨナバルがロクでもないことをべらべらしゃべる気持ちがわからないでもない。古参《こさん》兵のフェレウはぼくらの無駄話を聞き流している。 「……だからよ、早いとこ彼女でも見つけといたほうがいいって。ジャケット着てからあせっても遅いんだからよ」 「そうですね」 「電波スキーなんてどうだ? 基礎訓練《PT》でなんか話してたろ。気があるんじゃねえの?」 「そうですね」 「おまえさん、やけに冷静だよな」 「そうですか?」 「初々《ういうい》しさが足りねえんだ。おれの初陣《ういじん》はもうちょっとこう、ドキドキハラハラしてたけどよ」 「実力試験みたいなものだからでしょう」 「なんだそりゃ」 「ハイスクールでやりませんでしたか?」 「えらく昔のことを言いだすんだな」 「そうですね」 「……」 「そうですね」 「まだなにも言ってないぞ」  ヨナバルの声が遠く聞こえた。  戦場に来たのはついこのあいだのことなのに、百年も同じ場所で戦っている気がする。半年前のぼくはハイスクールの生徒だった。世界中で繰り広げられている血みどろの戦いにまったく関心をもたず、両親や友人と平和に暮らしていた。自分が戦場に立つことがあるなど想像もしていなかった。 「昨日から変だぞ」 「そうですか」 「頭をやられるなよ。ウチの隊からつづけてふたりなんてごめんだぞまったく……っていうかさあ、おまえさん、そのでかい鉄のカタマリはナニ? それでなにするつもり? 自己表現? ゲージツ?」 「斧《おの》は斬るものですよ」 「なにをだよ?」 「主に敵ですけど……」 「白兵《はくへい》ならパイルドライバがあるだろが。斧が一番役に立つってんなら人類最強はキコリのヘイヘイホーになっちまうっての」 「ヘイヘイホーじゃなくてヨサクです」 「ま、あれだ」  ぼくらの会話にフェレウが割り込んだ。 「どこで習ったかは知らねえが、おめえがそのでかぶつを使いこなせることはおれが知ってる。だがな、キリヤ、白兵は敵さんが真ん前に来ちまったからしかたなくやるもんで、自分から突っこんでくもんじゃねえ。現代戦の基本は射撃だ。それを忘れるな」 「はい」 「それからヨナバル」 「なんすか?」 「いや……おめえはそのまんまでいいや」 「ちょっと、ちょっと! ケイジをほめといておれはそれっすか? 繊細なおれにも、なんかこう心あたたまる励《はげ》ましの言葉をかけてほしいっすよ軍曹《ぐんそう》」 「おめえを励ますくらいなら二十ミリ磨《みが》きながら銃身に話しかけてたほうがまだ益があるってもんだ」 「さべつださべつー。ぶーぶー」 「ときどき思うことがある。おめえの口にかけるファスナーを開発した奴《やつ》におれの年金を全部くれてやっても……クソったれ! 作戦開始だ。キンタマ落とさねえように気ィ引きしめていけ!」  戦闘がはじまった。  ケーブルを引きずったままぼくは飛びだす。ジャケットのドップラー波出力を最大限。  いた。あいつだ。  射撃。  伏せる。  頭上をスピア弾が通り過ぎる。 「誰だ! 前に出過ぎだ! 死にたいのかっ!」  従うふりをして小隊長の指令を聞きながす。士官学校出の指示にいちいち従っていたら命がいくつあっても足りない。  けたたましい音をたてて銃弾が飛び交いはじめた。ヘルメットについた砂をぼくは払い落とす。  一瞬だけフェレウを見やる。  うなずいた。  ぼくの牽制《けんせい》射撃が敵の不意打ちを効果的に防いだことを彼は一瞬で理解した。見かけはひょろひょろで戦場に出るのもはじめてな初年兵キリヤ・ケイジが実戦では使える[#「使える」に傍点]奴だと、古兵《ふるつわもの》の勘《かん》がフェレウに告げたのだ。無謀《むぼう》ともいえる直感を彼は受け入れる度量があった。それこそが、バルトロメ・フェレウを二十年間生き残らせてきたものだから。  端的《たんてき》に言って、この小隊で使いものになるのはフェレウだけだった。先任の兵といっても、たかだか二度や三度実戦を経験しただけだ。生き残った兵ということは、どうやれば死んでしまうかを体験していないということでもある。  生と死のギリギリの境界を彼等《かれら》は知らない。骸《むくろ》積みあがる死線の真上こそが、戦場で生き残る一番の場所であることを知らない。ぼくの体に染《し》みこんだ恐怖が、もっとも恐ろしくもっとも苛酷《かこく》でもっとも安全な場所を知らせてくれる。  それがギタイとの戦いかただ。他の戦争をぼくは知らない。キリヤ・ケイジの敵は人類の敵。その他はどうでもよかった。  ぼくの中から恐怖は消えない。ぼくは恐怖している。おののいている。視界の外に敵の気配を感じるたび、背筋《せすじ》を戦慄《せんりつ》が蹂躙《じゅうりん》する。恐怖を体に染みこませておくことだとぼくに言ったのは誰だったか。小隊長だったかフェレウだったかそれとも訓練校の教官だったか。  恐怖がともにあることに、ぼくは震えながら安心感をおぼえる。絶望から逃げ、アドレナリンがもたらす興奮《こうふん》に溺《おぼ》れた者は生き残ることができない。戦場の恐怖は、切っても切れない性悪《しょうわる》女に似ている。なんとかうまくつきあっていく方法をおぼえるしかないのだ。  炸薬がはぜる音。弾丸が空《くう》を切る音。金属がちぎれる金切《かなき》り声。オイルと埃《ほこり》と血にまみれ、鼻先十センチに死が張りついている。  三〇一師団|装甲《そうこう》化歩兵第十二連隊第三大隊第十七中隊は捨て石だった。  主力の攻撃が成功すれば、包囲から脱出するギタイは奔流《ほんりゅう》となってぼくらを襲う。失敗すれば小戦力で敵のただ中にとり残される。どの道生き残る確率は低い。小隊長は知っているだろうし、最先任軍曹のフェレウも知らされているだろう。オキナワで壊滅した部隊を寄せ集めた中隊だから、こういう役回りがやってきた。二万五千人のジャケット兵が参加する作戦で一個中隊百四十六人ぽっちの全滅など幕僚《ばくりょう》監部にとってはどうということはない。作戦上、必要な犠牲《ぎせい》ってやつである。  だけれど、戦場なんてものはどの道、ヤバいか、マジでヤバいか、ヤバすぎてどうにもならないかのみっつしかないのだ。あせってもしかたがない。どんなときでも、戦場は、いつもどおり混乱で満ちている。機動ジャケットは同じ。敵も同じ。味方の兵も同じ。ぼくの体もまったく同じで、兵士としてはもの足りない筋肉はいまも悲鳴をあげていた。  それでも、変わりばえのしない肉体を支配する|オペレーティング・システム《OS》は劇的な変貌《へんぼう》をとげた。戦況に翻弄《ほんろう》され逃げまどう初年兵だったぼくは、いまや、戦場を支配する古兵《ふるつわもの》となった。  永劫《えいごう》に繰り返す戦闘も苦痛ではない。なぜなら、ぼくは、戦闘する機械だから。オイルと電流の代わりに、血液と神経伝達物質が流れるキリング・マシーンだから。  戦うマシーンは余計なことを考えない。マシーンは涙を流さない。マシーンは苦笑を顔にへばりつかせる。戦況を先読みし、一体の敵を屠《ほふ》りながら、目は次の敵を探し、頭はその次の敵を考える。幸福もないかわり、不幸もない。おだやかな心でぼくは戦闘をつづける。これが永遠につづくというのなら、それはそれでありかもしれないと考える。  撃つ。走る。体を開く。踏みしめる。ずんずん。〇・一秒前までぼくの体があった空間をスピア弾が疾走《しっそう》する。地面に突き刺さった。爆音。吹きあがる土砂。好都合。土砂の向こう側を敵は知覚することができない。ぼくにはわかる。ほら、そこに、一、二、三。即席でできあがった砂色のカーテン越しに、ぼくは三体のギタイを始末した。  なにげなく、味方の兵を蹴《け》りつける。両手に物をかかえて扉を足で開ける感覚だった。左腕は銃、右腕はバトルアクスで埋まっていた。神さまが人間に四肢《しし》を与えてくれたのは僥倖《ぎょうこう》だった。手と足合わせて三本しかなかったら、誰だか知らないこの兵士を助けることはできなかったから。  振り向きざまにギタイを斬る。一撃で倒した。  吹きとんだ兵士のもとに駆けよった。  装甲に王冠をかぶった狼《おおかみ》——第四中隊の一員である。彼らがここにいるということは、主力と合流したということだ。戦線が崩《くず》れはじめている。  ジャケットの肩が小刻《こきざ》みに震えていた。男はショック症状になっていた。ギタイに殺されそうになったからか、ぼくが蹴りとばしたからか、とにかく、周囲の状況を把握《はあく》できていない。放っておけば三分で死体のできあがりだ。  肩の部分に手をあててジャックを探りあてる。ぼくは話しかけた。 「このあいだの対抗戦は何点差だったかおぼえているか?」  男は答えない。 「あんたの部隊が第十七中隊に敗けた試合だ」 「な……んだ?」  かすれた声がした。からからに渇いた喉《のど》に言葉がへばりついていた。 「ラグビーの試合だよ。おぼえてないのか? 隊史に残そうって話になったくらいだから十点や二十点じゃなかったと思うんだが、とにかくすごい点差だった。まあ、こうやって話しかけるのはぼくが考えだしたことじゃないんだが。軍で発明したものは軍の所有になる決まりだとすればパテント料を払えとは言わないだろうな、あの人は」 「てめえ……なに言ってやがる」 「もう大丈夫なようだな」  初年兵だったぼくと違ってさすがに回復が早い。ぼくはぽんと肩を叩《たた》いた。 「貸しにしとくよ。第四中隊の——」 「ムラタ・コゴロー上等兵」 「ぼくはキリヤ・ケイジ」 「カッコつけやがって。いけ好かねえ野郎だ」 「おたがいさまだ。幸運を祈る」  拳《こぶし》を軽く突きあわせる。ぼくらは別れた。  左右を見回す。  駆ける。  トリガを引く。  体は疲労困憊《ひろうこんぱい》しているのに頭の一部は日常生活を送るときより覚醒《かくせい》していた。ベルトコンベアの機械が、きれいなリンゴと形の崩れたリンゴを自動的にふりわけるみたいに、余計な情報は自動的にシャットアウトされ必要な情報だけが脳に届くのだ。  この[#「この」に傍点]今日も、ぼくはリタ・ヴラタスキの姿を見かけた。  彼女は爆音とともにやってくる。敵の攻撃が届かない高度を旋回《せんかい》する攻撃機から放たれたレーザー誘導爆弾は彼我《ひが》の距離を二十秒弱で駆け抜け、戦場の女王が示した地点で正確に爆発する。  彼女の往《ゆ》くところ、精密誘導された爆弾が降りそそぎ、生けるものもそうでないものも等しく粉微塵となる。爆発跡のクレータから這《は》いだすものはバトルアクスの餌食《えじき》となる運命だ。  戦場だというのに、赤いジャケットを見るとぼくはなぜだかほっとした。リタが現れただけで、崩れかけた戦線が勢いをとり戻していた。  彼女は卓越《たくえつ》した技量の持ち主だ。統合|防疫《ぼうえき》軍USがつくりあげたソルジャ・オブ・ザ・ソルジャ。でも、やはりそれだけでなく、彼女は戦場の女神でもあるのだろう。  戦場にいる兵士は、彼女の目立つジャケットを視界に捉《とら》え、彼女のことを考えて戦う。不安定な吊《つ》り橋の上で出逢《であ》った男女が恋に落ちてしまうように、いつ死が訪れるかわからない戦場にいる男たちはリタに恋してしまうこともあるかもしれない。戦場の牝犬《ビッチ》という呼び名だって、荒くれ者たちがつけた精一杯の称号《しょうごう》なのだ。  そんなことはないと思うが、あるいは……かく言うぼくも、リタ・ヴラタスキその人にある種の感情を抱きはじめているのか。  まあ、それもいいだろうと思う。クソったれな時間の輪から抜けだせないぼくは、人と愛し合うことができない。一日という短い時間の中で誰かと相思相愛の仲にたどりついたとしても、次の日にその人はいなくなってしまっているのだ。ループする世界は、人と共有する大切な時間を奪いとる。  ぼくが弱かった頃、たった一度だけ助けてくれたあの人。戦場にまるでそぐわないグリーン・ティーの話題でぼくを落ちつかせたあの人。死ぬまでそばにいると言ってくれたあの人。手の届かない存在である女神に片想いしているほうが都合いいってものじゃないか。  そんなことを考えつつも、ぼくのOSは自動的に反応する。体をひねり、足を踏みだす。目の前で繰り広げられる戦闘について考えることなどない。余計な思考は、精密機械としてのぼくの性能を下げる。ああすればいい、こうすればいいと考えながら体を動かすのは訓練でやることだ。実戦でやったら、いまかいまかと出番を待っている死神がにやりと笑って鎌《かま》を振り下ろしてくれやがる。  ぼくは戦闘をつづけた。  戦闘開始から七十二分。タナカとマーイエ、ウベ、ニジョーがKIA。数にして四。負傷《WIA》は七。行方不明《MIA》、|〇《ゼロ》。  水着ギャルのポスターを壁に張ったニジョー、チャイナの奥地からやってきた無口なマーイエ。よく知らないあとのふたり。見殺しにした男たちの顔を、ぼくは、胸の奥深くに強くつよく刻みつける。数時間後には消えてなくなってしまう彼らの苦しみを忘れないようにする。ちいさなトゲのようにちくちくと心をさいなむその痛みが、次の戦場のぼくを強靭《きょうじん》にする。  小隊はなんとか保《も》ちこたえている。ロータの音がかすかに聞こえる。支援ヘリが撃墜《げきつい》されずに飛んでいる証拠だ。いままでで一番いい。鬼神《きしん》の働きをする初年兵の独断先行に小隊長はなにも言わなくなった。ときおり、正確|無比《むひ》なフェレウの射撃がぼくを援護する。  そして、そいつを見つけた。  クソったれなループに巻き込まれた最初の戦闘で戦った敵。  リタに助けられたあの戦場で、三発のパイルドライバを叩き込んだ敵。  なぜだかわからないがぼくにはそいつがわかった。外見はどこも変わらないカエルの溺死体《できしたい》だが、百五十七回の繰り返しを経《へ》てさえ、ぼくは、最初の戦闘で自分を殺した敵をしっかりと憶《おぼ》えていた。  ぜひともあいつはぶっ殺さねばならない。  奴をぶっ殺すことで、なにかの区切りがつくような気がした。次の今日もその次の今日もそのまた次の今日も戦場は変わらないだろうけれど、奴を殺せば、変わらぬ毎日にほんのすこし変化をつけることができる。そう思った。  そこで待っていろ。  いま殺してやる。  区切りといえば、あのミステリーのつづきを読んでいなかった。ぼくは突然思いついた。ループに巻きこまれる前のたった一度しかない大切な時間を使って読んだあの本だ。探偵が登場人物を集めて謎解きをする場面だというのに、訓練に明け暮れてすっかり忘れていた。もう一年近くつづきを読んでいない気がする。  そろそろ、読んでみるのもいいかもしれない。あいつを殺して一段落したら、最終章にとりかかるとしよう。  バトルアクスを構える。  油断をせず、ぼくは敵に近づく。  雑音がヘッドフォンから聞こえた。  誰かがしゃべっている。  女の声だ。  そのとき、戦場の女神リタ・ヴラタスキは、人類最後の切り札は、基地外リタ電波スキーは言ったのだ。 「おまえ、いま……何周めなんだ?」 [#改ページ] 第三章 Bitch of the Battlefield 戦場の牝犬 [#改ページ]    1  強い日射しが輪郭《りんかく》のはっきりした影を描きだしていた。照準用レーザー光線が遠くまで届きそうな澄んだ空で、ばたばたと隊旗《たいき》がはためいている。パシフィック・オーシャンから吹きよせる南風はわずかに湿っている。  鼻から喉《のど》を通り抜けて舌《した》の奥をくすぐる香りを潮風《しおかぜ》の中に感じとり、リタ・ヴラタスキは赤い眉《まゆ》をいぶかしげに歪《ゆが》めた。ギタイが発する臭気《しゅうき》とは違うものだ。もしかしたら、これが有名なニョクマム・ソースの素《もと》となる香りなのかもしれない。  戦争に来ているのでなければ、極東の地はまんざら悪い場所でもなかった。守り難《にく》そうな海岸線に沈む夕日はきれいだし、空気も水もおいしい。一般人の十分の一くらいしか風流がわからないリタがすばらしいと感じるのだから、バカンスに来た人々はさぞかしこの景色を満喫《まんきつ》することだろう。……湿気の多さには辟易《へきえき》とするけれど。  快晴の今夜は絶好の爆撃|日和《びより》だ。日が沈めば、GPS誘導爆弾をたらふく腹に詰めこんだ爆撃機が次々と飛び立ち、作戦目標の島をクレータだらけにする。人類の敵も、美しい珊瑚礁《さんごしょう》も、多様な島の生態系も等しく木端微塵《こっぱみじん》となる運命だった。 「いい陽気じゃないか、ヴラタスキ准尉」 「……」 「こういう日に飛行機を撮ると、陰影《いんえい》のあるいい絵になるんだ」  ジャケット兵の平均値を凌駕《りょうが》する太い首にフィルム式カメラを下げた男が言った。  となりでリタはふんと鼻をならした。 「まるで写真家のような口を利《き》く」 「ジャパン遠征に唯一《ゆいいつ》帯同《たいどう》を許された報道写真家を捕まえてひどい言いようじゃないか。戦争の真実を大衆に届ける仕事にこれでも一応、誇りを持ってるんだけどね」 「おまえ、舌は何枚持っている?」 「一枚しかついてないよ。神はアメリカ人をそうお創《つく》りになられた。クレタ人とロシア人には二枚ついてるって話だがね」 「嘘《うそ》をついた人間の舌を抜く神がジャパンにはいるそうだぞ。虎《とら》の子の一枚を引っこ抜かれないようせいぜい気をつけるがいい」 「おお、怖い怖い」  ふたりが立っているのは、海からの風をまともに受ける演習場の片隅《かたすみ》である。だだっぴろい演習場の真ん中では、ジャパンの装甲《そうこう》化歩兵中隊百四十六名がおかしな姿勢で固まっていた。マエササエとかいう訓練の一種だという。リタには馴染《なじ》みのないものだ。  すこし離れたところに集まっているリタの同僚たちは、剛毛《ごうもう》の生《は》えた太い腕を突きだして、奇妙な格好《かっこう》をするサムライの子孫を囃《はや》してたてていた。  出撃前の三十時間、部隊の仲間たちは女王リタ・ヴラタスキに近づかない。暗黙のうちに成立した決まりだ。遠慮《えんりょ》なく話しかけてくるのは、どこかピントがずれたアメリカンネイティブのエンジニアと、となりにいるラルフ・マードックだけである。  リタは聞いた。 「彼ら、腕は動かさないのか?」 「あの姿勢で固まったままだって話だよ」 「これがおまえの言っていたサムライ式の訓練なのか? どちらかといえばヨガに見えるが」 「インドの神秘もジャパンの神秘もあまり変わりはないだろう?」 「きゅーじゅはち!」 「キュージュハチッ!」 「きゅーじゅきゅー!」 「キュージュキューッ!」  中隊付き准尉が数える声に合わせ、ロバの耳をした王様の秘密を知ってしまった理髪師のように、男たちは地面に向かって叫んでいる。一中隊百四十六人の声がリタの頭蓋《ずがい》でこだまする。リタは頭痛を感じた。馴染みとなった偏頭痛《へんずつう》だ。今日はとくにひどかった。 「例の頭痛?」 「おまえには関係ない」 「一個小隊クラスの医師団がついていて、頭痛ひとつ治せないのは不思議だね」 「自分も不思議に思っている。なぜだかおまえが聞いてみてくれ」 「彼らはガードが固くてね。いつも取材拒否されるんだよ」  マードックはがしゃがしゃと写真を撮りはじめた。目の前で行われている奇妙な訓練の写真をどうするつもりなのか。あるいは、ゴシップ好きの新聞社にでも売りつけるつもりなのかもしれない。 「悪趣味な写真を撮る奴《やつ》だ」 「写真は写真。良い趣味も悪い趣味もないよ。リンクをクリックして死体画像が出てきたら、よいこのママは訴訟《そしょう》を起こすが、同じ画像がタイムズのホームページを飾ればピューリッツァ賞候補になる」 「ぬけぬけと言う」 「そうかな?」 「情報処理施設に忍びこんだのはおまえだろうに。自分のヘマのとばっちりを受けて苦労している男どもの写真を撮るのが悪趣味だと言っている」 「おいおい。濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だよ」  シャッターを切る間隔が微妙に縮《ちぢ》まる。ふたりの会話が騒々しい音の裏側に隠れた。 「中央にくらべるとここはセキュリティーが甘い。辺境の前線基地でどんな情報を探していたのかは知らないが、他人に迷惑をかけるな」 「……お見通しというわけか」 「スクープをつかんだところで、検閲《けんえつ》されて発表できなければしかたなかろう」 「真実の報道は政府の連中にまかせるさ。だが、なにが本当の真実かは自分自身の目で見極《みきわ》める必要がある。たとえ報道されることがなくてもね」 「エゴイストだな」 「ジャーナリストはみなエゴイストだよ。それはそうと、いいネタを仕入れた。夢を見る人々を知っているだろ?」 「電波宗教に興味はない」 「フロリダできみが大活躍をするのと、彼らが活動を開始するのがほぼ同時だったというのも知っているかな?」  夢を見る人々とは、反戦運動をする市民グループだ。ギタイの発生で海洋の生態系が大きく変化し、イルカだかクジラだかの海洋|哺乳類《ほにゅうるい》の保護を謳《うた》っていた団体が自然消滅した。その後を継ぐ形でたちあがったグループである。  ギタイを知性体だと考えている彼らは、人類がコミュニケートしないからギタイも戦うのだと主張する。兵器としてのギタイが進化しているように、根気よく訴えかければ人類とコミュニケートする能力も進化するのだと。ギタイに人類は勝てないと考える厭戦《えんせん》派の人々を飲みこみ、ここ二、三年で運動は急速に広がっているという話だ。 「ジャパンに来る前、何人かに取材をしたんだ」 「ご苦労なことだ」 「彼らは共通した夢を見る。人類がギタイと戦って敗北する夢だ。同じ日に同じメンバーが同じ夢を見る。彼らはそれを、ギタイが人類に送信したメッセージだと考えている。ここまでは誰でも知ってることだが——」  マードックは舌なめずりをした。体のサイズに似合わない小さな舌が、くちびるの隙間《すきま》で軟体《なんたい》動物のように蠢《うごめ》いた。 「調べてみたら、その同じ日というのが、統合|防疫《ぼうえき》軍US特殊部隊が作戦行動を起こす前日に集中していたというわけだ。しかも、夢を見る人々の数はここ数年増えつづけている。公表はされていないが、軍の中にも相当数いる」 「海のミステリアスにはなんでも知性があると考える電波宗教どもの話をおまえは真《ま》に受けるのか?」 「ギタイが知性体かもしれないというのは学会でも真面目《まじめ》に論じられているんだぜ。知性体ならメッセージを送ってもおかしくない」 「わけのわからないものを無理矢理メッセージとして解釈するのはやめることだ。そんなことを言っていると、いつまでたっても政府の御用聞きのままだぞ」 「生物ってのは、単細胞、変温動物、恒温動物と進化するごとに重さあたりのエネルギー消費量が十倍になってきた。人類が社会的に消費するエネルギーを見ると、やはり恒温動物の十倍になっている。そして、変温動物であるはずのギタイのエネルギー消費量は、ヒトと同じく恒温動物の十倍だ」 「おもしろい理論だ。論文を書いて発表するがいい」 「きみも夢を見ると言っていたじゃないか」 「ああ。見る。だが、夢を見るというのは、ただ、夢を見ているのだ」  夢に意味を見いだすのは無駄なことだとリタは考える。悪夢は、ただの悪夢にすぎない。リタ・ヴラタスキが戦闘のたびに巻きこまれるクソったれな時のループとは本質的に違うものだった。 「ところで、今日も出撃前日だが、おまえが取材した連中はそのメッセージとやらを受けとったのか?」 「もちろんだ。今朝、ロスに電話して確かめた。三人が三人とも受信してるよ」 「語るに落ちたな。そんなことがあるわけがない」 「なんでわかるんだ?」 「この[#「この」に傍点]今日はまだ一回めだからだ」 「またそれか。今日に一回めも二回めもないだろ?」 「わからないのならわからないでいい」  マードックは大きな肩をわざとらしく揺すった。演習場で汗《あせ》を流す不運な男たちにリタは視線を戻す。  ジャケット兵に筋力はあまり必要ないと言われている。スタミナ切れを起こす瞬発的な筋力よりは持久力や耐久力がより重要だ。リタが所属する特殊部隊では、中国|拳法《けんぽう》の馬歩《まーぶ》と呼ばれる姿勢をトレーニングにとりいれている。馬にまたがったような姿勢でじっと動かぬ訓練だ。足腰の強化だけでなく、バランス感覚を養うのにも役立つ。  マエササエと呼ばれるサムライ式トレーニングにいかなる効果があるのかリタの目にはさっぱりわからなかった。どちらかといえば懲罰のように思える。  ジャパニーズの部隊は、隙間もないほどびっしりと並んで、ひとつの姿勢で固まっている。  彼らにとっては、人生で下から数えたほうが早いくらい最悪な経験だろう。だが、そういうくだらない思い出が持てることを、リタ・ヴラタスキはうらやましく思う。トイレに流して捨てたい経験をリタが他人と共有しなくなってもうずいぶんになる。  湿度の高い風が鉄錆色《てつさびいろ》の髪をなぶる。ショートと呼ぶには伸びすぎた前髪が額《ひたい》をくすぐった。  ここは、まだ繰り返していない一回めの世界だった。ここで起きたことはリタの頭の中にしか残らない。JPの兵士が流した汗も、US特殊部隊が投げつけたひやかし声も、みんなみんなきれいさっぱり消えてしまう。  放っておいてもよかった。  だが、濡《ぬ》れたシャツが肌《はだ》に張りついてはがれない気候で出撃前日にトレーニングしなければならない兵はすこしばかりあわれだった。間接的にそれは、マードックを連れてきたリタのせいでもある。  できるなら、サムライ魂《だましい》を鍛《きた》える以外には役に立たなさそうなPTの時間を短縮させてやりたいとリタは考えた。たとえ、感傷にすぎないとしても。  リタは演習場を見回した。  そして、挑戦的な目と遭遇《そうぐう》した。  その男は、この世のすべての呪《のろ》いを込めたような瞳《ひとみ》でリタをじっと睨《にら》んでいた。畏敬《いけい》や憧憬《しょうけい》、怖いもの見たさの視線を浴びることには慣れていたけれど、見ず知らずの人間に、親の仇《かたき》のような瞳で見つめられる経験はなかなかない。ヒトが目から光線を出すことができたなら、きっと、リタは三秒もしないうちにクリスマスの七面鳥《しちめんちょう》と同じ運命になっていたに違いない。  過去に一度だけ、同じようにまっすぐな視線を持った男に出会ったことがある。  アーサー・ヘンドリクス。物怖《ものお》じしない蒼い瞳の持ち主。リタが殺し、その瞳を暗い土の中に葬《ほうむ》った。  前支《まえささ》えをしている男は、筋肉のつきかたからすると初年兵かそれに近い階級の者らしかった。ヘンドリクスとは違う。ヘンドリクスは中尉で、アメリカ人で、特殊部隊の小隊長を務めていた。  目の色も違う。髪の色も違う。顔つきも体つきも違う。  だけれど。  戦場の女神リタ・ヴラタスキは、東洋人のその男に興味を持った。    2  人の才能を測定する機械があったら世の中はどうなるだろうと、リタ・ヴラタスキは考えることがある。  背の高さや顔かたちを決定するDNAがあるのだとしたら、才能を決めるDNAがあったとしてもおかしくない。父や母や祖父や祖母——かつて祖先の体を流れていた血が寄り集まって個人の素質を決定づけるのだ。冷徹《れいてつ》で正確な測定機械は、身長や体重を計るのと同じように、その人物に備わった資質を数値ではじき出す。  もし、数式で宇宙を読み解く才を授かった人間が文学者を志望したら。  たぐいまれなパンを焼く才を授かった人間が技術者を目指したら。  やりたいことと天賦《てんぶ》の才を与えられたこと。そのふたつが別れてしまったとき、どちらの道を選ぶのが本人にとって一番幸せな道なのだろうか?  子供の頃、その少女が得意だと胸を張れることはホースシューと嘘《うそ》泣きくらいだった。戦闘の才能が自分のDNAに隠れているなど考えたこともなかった。  十五歳で両親を失うまで、少女は、にんじんみたいな色の髪が好きになれないごく普通の子供だった。運動が得意というわけではなかったし、ジュニアハイスクールの成績も普通。ピーマンとセロリが嫌いなのも特筆すべき特徴《とくちょう》ではない。ただし嘘泣きだけは特別で、なんでもお見通しの母親でなければ百回やって九十九回までひっかける自信があった。祖母から隔世《かくせい》遺伝した赤毛の他は目立つところのない、二億四千万人いるアメリカ人のひとりだった。  少女の家族が住んでいたピッツフィールドはミシシッピー川の東にある静かな村だ。フロリダでもマサチューセッツでもないイリノイのピッツフィールドである。少女の父親はジウジツとかいう有名な武術の家系の末っ子として生まれたのだが、士官学校もスポーツ選手の道も嫌い、ドのつく田舎《いなか》でブタを飼育する生活を選択したのだった。  統合|防疫《ぼうえき》軍に志願して村から出ていく若い男を別にすれば、ピッツフィールドの住人は、人類が未知の敵と戦争中であることを忘れてしまうくらい平和な日々を送っていた。  人口四千人たらずのこの村が、少女は嫌いではなかった。  ブタの鳴き声は毎日ぶうぷうとうるさかったけれど、きれいな空気と広い空がここにはあった。秘密の場所で四つ葉のホワイトクローバーを探すのも好きだった。  村では、貿易商を引退したという老人が小さな店を開いていた。食糧品《しょくりょう》から日曜雑貨、ギタイを追い払う銀の十字架までなんでも取り扱う店だ。他では絶対に手に入らない天然のコーヒー豆も老人の店には並んでいた。  未知の生命体の侵略によって発展途上国の農地が砂漠化していくにつれ、天然のコーヒー豆や茶、タバコといった嗜好《しこう》食品は姿を消し、代用品や合成フレーバにとって代わられていた。巨大な国とその軍隊が消費する農作物や豚肉《ぶたにく》の生産に追われていたのは少女の住む村も同じことだ。  ギタイの侵略は人類のもっとも脆弱《ぜいじゃく》な部分からはじまったという。アフリカや南アメリカの最貧国。東南アジアの諸島国家。満足な軍備を持たない国の領土が蝕《むしば》まれ砂漠化していった。侵略を受けた土地の人々は、コーヒー豆や茶、タバコ、スパイスといった嗜好食品の栽培をやめ、明日食べるマメやイモを植えた。先進諸国はギタイの侵略を水際で食いとめていたが、かつて社会が大量に消費していた農産物のいくつかは市場から姿を消している。  人生の幼少期を物資の豊かな都市で過ごした父親は中毒といってもいいほどのコーヒー好きだった。アルコールもタバコもやらないかわり、父はコーヒーに金をかけた。母には内緒で、父の手に矧かれ、少女は何度も老人の店に足を運んだ。  浅黒い肌《はだ》をしてもじゃもじゃの白髭《しろひげ》をたくわえた老人は、大きなガラス瓶に繋がったパイプを咥《くわ》え、どこの国からやってきたのか見当もつかない品々の中に一日中埋もれていた。  小さなちいさな銀細工の動物。どう見てもかわいくない人形。鳥だか動物だかわからない木彫《きぼ》りの柱。店の中は、老人が吐きだす煙と、謎のスパイスと、土の匂《にお》いがほのかに混じった天然コーヒー豆の香りに満ちていた。 「こいつはチリで穫《と》れた豆。こいつはアフリカのマラウィ。そしてこいつが、ヴェトナムからシルクロードを越えてヨーロッパ経由ではるばるやってきた豆だ」  少女の目にはどれも同じに見える豆を指さし、老人が説明する。 「タンザニア産がいいんだが」 「あんたが全部飲んじまったろうに」 「女房みたいなことを言わないでくれ。あれが一番好きなんだ」 「じゃあ、こいつはどうだ。とびっきりだぞ。ハワイ島で穫れた最高級のコナコーヒー。ワシントンDCでもなかなかお目にかかれない代物だ。匂いを嗅いでみろ」  顔中の皺《しわ》をくしゃくしゃにして老人はにやりと笑った。父親は腕を組んで唸《うな》っている。悩むこと自体を楽しんでいる顔だ。彼女の身長にはすこしばかり高いカウンタから、背伸びして、少女は首をのぞかせてみた。  少女は言った。 「ハワイは陥落《かんらく》したって、このあいだテレビで見たわ」 「物知りだな。お嬢さん」 「バカにしないで。ベースボールとフットボールしか興味がない大人より、子供のほうがずっとニュース番組を見ているのよ」 「こりゃまいった」  老人はふたたび顔をくしゃくしゃにした。 「こいつが最後なんだよ。地上で穫れた最後のコナだ。こいつを飲んじまえば、地球上からコナは消えてなくなる」 「そんなものをどうやって手に入れたの?」 「そいつはないしょだ、お嬢さん」  麻《あさ》袋の中にクリーム色の豆がぎっしり詰まっていた。すこしだけ丸みをおびている以外は、他の豆とたいして変わりばえがしないように見えた。  少女はひと粒つまんでみる。焙煎《ばいせん》していない生豆《きまめ》はひんやりと冷たかった。  海に囲まれた土地の空の話を父親に聞いたことがある。ハワイコナは、どこまでも青い空の下でさんさんと太陽の光をあびて育った豆だ。青い絵の具を流して水で薄めたようなピッツフィールドの空も少女は嫌いではなかったけれど、この豆にさんざん光を浴びせかけた空の色も見てみたいと思った。 「お嬢さんはコーヒーが好きかね」 「悪いけどあまり好きじゃないわ。だって甘くないんですもの。チョコレートのほうがずっと好き」 「残念だな」 「でも、香りには合格点をあげてもいいわ。ここにある香りの中で掛け値《ね》なしに一番だと思う」 「将来有望だな。どうだ。わしの仕事を継ぐ気はないか?」  老人はいたずらっぽく言った。それまでコーヒー豆ばかり見ていた父があわてて遮《さえぎ》る。 「ひとり娘をたぶらかさないでくれ。こいつがいなくなったら農場を継ぐ者がいなくなる」 「お嬢さんにわしが仕事をまかせるように、有望な若者を連れてきてそいつに継がせればよかろう」 「考えてあげておいてもいいけれど……」 「おいおい」 「いいじゃないか。ここはいつだって自由の国だ」 「お父さん、将来の選択|肢《し》はできるだけ多く用意しとくべきだわ。あたし、軍隊以外ならなんでもチャレンジしようと思っているの」 「お嬢さんも軍隊が嫌いなのかい? 統合防疫軍は悪くないぞ」 「この子は息子じゃなくて娘だ」 「十八歳になったすべての国民は、国と国民を守る統合防疫軍に志願する権利を持つ。何人《なんぴと》たりともそれをさまたげることはできない。あんたも知ってるだろう」 「しかし女の子が軍人ってのはなあ……」 「軍隊には入らないから安心していいわよ」 「理由を聞かせてくれるかね?」 「ギタイは食べられないって本に書いてあったわ。食べられないものを無闇《むやみ》に殺すのはいけないことだって、先生も神父さまも言っていたもの」 「この子は大物になるぞ」 「たびたび悪いけど、人並みの生活が一番だと思うわ」  大人たちは顔を見合わせて笑った。  なぜ彼らが笑っているのか、少女にはわからなかった。  ピッツフィールドの村をギタイが襲ったのはそれから四年後の冬だ。例年になく寒い冬だった。いくら除雪してもその上から降り積もる雪で、交通は半《なか》ば麻痺《まひ》状態だった。  あとから知ったことだが、ギタイの群れは斥候《せっこう》のようなものを出すことがあるらしい。進めるだけ進んで情報を持ち帰る決死の部隊だ。統合防疫軍の警戒網《けいかいもう》をすり抜け、誰に知られることもなく、三体のギタイがミシシッピー川をさかのぼってきた。  不審《ふしん》な影に村人が気づかなければ、斥候部隊は、農場と養豚《ようとん》場しかないピッツフィールドを通り抜けて行っただろうと言われている。  夜回りの撃った猟銃《りょうじゅう》の弾が虐殺《ぎゃくさつ》の引き金となった。  深い雪に阻《はば》まれ、州の警備隊は移動することができなかった。  統合防疫軍の部隊がヘリで到着するまで三時間。村の半分が焼け落ち、村人の三分の一にあたる千五百人が死んだ。村長も死んだ。神父さまも死んだ。雑貨屋の老人も死んだ。  軍を拒《こば》みブタを飼育《しいく》することを選んだ男は、家族のために果敢《かかん》に戦って死んだ。  ギタイに猟銃など効かなかった。車で突っこんでもはね返された。木造りの素朴な家屋をスピア弾は易々《やすやす》と貫いた。  連なる三体の敵に男は素手《すで》で突入した。敵の砲撃の瞬間を見切って体当たりし、敵の砲撃を敵にぶつけて粉砕《ふんさい》。そうやって二体のギタイを屠《ほふ》り、最後の一体に引き裂かれた。  軽くない傷を負った母親に抱かれ、少女は、父親が戦って死ぬ姿を雪の中からずっと見ていた。煙がわきあがり炎が渦《うず》を巻いていた。まばゆい火の粉が下から上へと駆けあがっていた。見上げると、空が赤黒く染まって見えた。  冷たくなっていく母親の体の下で少女は思った。  彼女が嘘泣きをすると、熱心なキリスト教徒だった母親は神さまの罰《ばつ》があたって天国に行けなくなると言った。地球の外から来たというギタイも嘘をつかなければ天国に行くのかと聞くと怒りだす人だった。神さまがヒトをつくりギタイをつくったのなら、天国に行ってもヒトとギタイは戦争をしているのだろうか。父と母はそんな場所へ行くのだろうか……。  遠い親戚《しんせき》に引きとられた少女は、となりのぼろアパートに住んでいた三歳年上の女性の難民パスポートを盗みだし、その足で統合防疫軍事務所に向かった。  長びく戦役で厭戦《えんせん》気分が国中を覆《おお》っていた。統合防疫軍は最前線で戦う兵士をいつでも求めていた。よほどの罪を犯していなければ志願を拒否されることはなかった。少女は志願できる歳《とし》に達していなかったが、係官は、難民パスポートに記載された年齢だけを見て許可の判を押した。  愚《おろ》か者が志願を考えなおすために与えられた最後の自由な一日を、リタ・ヴラタスキと名乗ることになった少女は、統合防疫軍事務所の固いベンチの上で過ごした。  彼女の望みはただひとつ。  この惑星の上から、クソったれなギタイを一匹残らず駆逐《くちく》すること。父の血を引いた自分ならできるはずだった。    3  夜空を見あげてみよう。  人類がかに座と呼ぶ方角だ。宇宙に描かれた大きなおおきな蟹《かに》の右のハサミにはさまれるようにひっそりと輝く星がある。どんなに目を凝《こ》らしたって見えやしない。そいつを見るには、小山のようにでっかい天体望遠鏡が必要だ。  一秒間に地球を七回り半する光の速度で旅をして、地球から四十年以上かかる場所である。  人類が発する電波は拡散《かくさん》して届かない。そんな星で起きたかもしれないおとぎ話をこれから披露《ひろう》する。  その星の周囲を回る惑星には、地球より多くの生命が生息し、地球より進んだ文明が発達し、地球より優《すぐ》れた知性体が日々を過ごしていた。その知性体を、このおとぎ話では仮にヒトと呼ぼう。  あるとき、|緑の爆弾《テラフォーミング・ボム》と呼ばれるものを考え出したヒトがいた。  こいつは、宇宙船の先端にくくりつけられる。生命体が乗っているものよりもずっと軽く無駄のない宇宙船は強烈な加速で宇宙をすっとび、目的地の惑星で爆発するのだ。  爆発によって全土に散ったナノマシンが環境を改造し、未開の惑星をヒトが棲《す》める土地へとつくり変える。実際はもっと複雑なプロセスを経るが、簡単に言えばこうだ。あとから悠々《ゆうゆう》と出発したヒトの乗っている船は、ナノマシンが惑星改造を終えた頃にたどりつくというわけである。  ヒトの学者は言った。  調査もしないで惑星の環境を破壊して、とり返しのつかぬことになったらどうするのか。  ヒトが移住しやすいということは、生命が発生しやすい環境だとも考えられるのだ。ヒトの勝手な都合で、彼らの土地を奪ってよいものなのか。  発案者は答えた。  とり返しのつかぬ開発の上にヒトの生命は成り立っている。  版図《はんと》を広げるに従い、ヒトは、さまざまな生命を犠牲《ぎせい》にしてきた。伐採《ばっさい》、干拓《かんたく》、ダム開発、資源物資の掘削《くっさく》。ヒトによって生活環境を破壊され絶滅した生物はいくらでもある。自《みずから》らの惑星上の生命は犠牲にしてよいのに、宇宙の生命は犠牲にしてはならぬというのか。  知的生物がいる可能性がある。惑星の開発にはヒトの監督が必要だ。  我々の問いかけに答えたものなど、存在しないではないか。  惑星の住人は、増えすぎた人口を移民させる新しい星系を必要としていた。  遠すぎず、連星や閃光《せんこう》星でなく、液体状態の水が保持できる軌道《きどう》の惑星を持つG型恒星系。条件にかなったのは、人類が太陽と呼ぶ星だった。自分たちと同じ知的生物が銀河の片隅に住んでいることなど、ヒトは考えもしなかった。連絡をとる手段もなかった。  なにしろそこは、光の速度で旅をして四十年以上かかる場所なのだった。  遙《はる》か彼方《かなた》の異星のヒトがつくった宇宙船は、そうして地球にやってきた。宇宙船に異星人は乗っていなかった。地球を侵略する兵器でもなかった。それは、土木機械に近かった。  宇宙から飛来した人工物は地球の人々の注目を集めた。しかし、いくら呼びかけても応答はなかった。  公式には隕石《いんせき》だと発表されたそれは八つに分裂し、四つが海の底に沈んで、三つが大陸に着地した。一つは軌道上に残った。オーストラリアと北アメリカに堕《お》ちたものはNATOの手に渡り、アジアに堕ちたものは、ロシアとチャイナが争った末にチャイナがもぎとった。軌道上に残った母船らしきものは、各国が争奪戦を繰りひろげた結果ミサイルによって爆散し宇宙の藻屑《もくず》となった。  地球人の手が届かぬ深海に落下した自動機械は、静かに、そして確実に、与えられた命令のとおり動作をはじめる。自動機械は棘皮《きょくひ》生物に目をつけた。ナノマシンという形で固い棘皮の内側に潜りこみ、共生関係を結んで大量増殖した。  それ[#「それ」に傍点]は土壌《どじょう》を食らった。そいつの体内をくぐり抜け排泄《はいせつ》された土壌は、地球上の生物にとって有害なものに変化した。異星の生物が棲みやすい土地になった。生態系を破壊された土地は砂漠化した。海は濁《にご》った緑色になった。  当初は、人類が垂《た》れ流した化学物質が生みだした変異生物だとも、深海に棲息《せいそく》していた太古《たいこ》の時代の生物が地殻《ちかく》変動で現れたのだとも言われた。どこからそんな説を引っぱりだしてきたのか、サンショウウオが進化したものに違いないと主張する学者もいた。  やがて、それは群れをなして上陸をはじめ、人類の社会活動に頓着《とんちゃく》することなく惑星改造をはじめた。  はじめて地上にあがったそれは、兵器と呼べるほど強靭《きょうじん》なものではなかった。動きも緩慢《かんまん》で、武器を持った男どもがいれば十分に対抗できた。しかし、ゴキブリが殺虫剤に耐性をつけるように、異星の自動機械は進化していった。環境を変化させる前に、自分たちに与えられた命令を邪魔する物体を排除《はいじょ》しなければならないとの結論に達したのだ。  全世界で戦いが勃発《ぼっぱつ》。戦禍《せんか》は急速に拡大し、地球規模の統合|防疫《ぼうえき》軍が結成された。  人類を存亡の危機に陥《おとしい》れた敵を、人々は、ギタイと呼んだ。    4  統合|防疫《ぼうえき》軍|装甲《そうこう》化歩兵特殊部隊にリタ・ヴラタスキが編入されたのは、トール奮迅《ふんじん》撃破章を授与された戦いのあとだった。  トール撃破章は、一度の戦闘で十体以上のギタイを撃破した歩兵に与えられる勲章《くんしょう》である。ハンマーを象《かたど》ったぴかぴかの勲章をリタの胸につけた将官は、二ケタのギタイを屠《ほふ》る兵は滅多《めった》にいないとほめちぎった。二度めの作戦行動でこの勲章を得たのはリタがはじめてだという。五十人の装甲化歩兵小隊でとり囲んで銃弾の雨を降らせ、やっとなんとか相手にできる敵がギタイという敵だった。  たった二度の実戦で、どうやって敵を屠る技術を身につけたのかと聞く者がいた。  リタは逆に問いを発した。 「新婚家庭の妻がキッチンで料理をつくっている。はたして彼女は危険だろうか?」  そうではない、とほとんどの人間が答えるだろう。  スイッチをひねるだけでガスバーナはすぐに火を噴《ふ》きだす。シンクの下には引火する燃料が詰まっている。棚の上の鍋《なべ》が雪崩《なだれ》を打って落ちてくればただではすまないし、包丁ほどの刃があれば人間は簡単に死ぬ。  だが、誰も危険とは思わないし、実際危険性は低いのだ。彼女は、なにをすれば危険で、なにをすれば安全であるかを熟知している。燃えさかる炎に油を注いだりしないし、包丁を自《みずか》らの頸動脈《けいどうみゃく》にあてがったりしない。  戦場も同じことだとリタは思う。  ギタイの攻撃は単純だ。ピッツフィールドで群れていたブタにも似ている。人間はギタイのひとつに狙《ねら》いをつけて攻撃するが、ギタイはそんなことはしない。砂粒をホウキで掃《は》くように、ギタイは人間の集団めがけて攻撃する。ホウキのふさを避ける方法を知っていれば、何度掃かれようとギタイの攻撃はあたらない。こぼれ落ちたひと粒もホウキで掃きなおすのがギタイの戦いかたなのだ。  危険から逃げるのではなく死線の真上を疾走《しっそう》するのが、対ギタイ戦闘で生き残る秘訣《ひけつ》である。  おまえもやってみるがいい。  質問を発した男は納得しない顔で去っていった。  十六歳になったばかりのリタには、どうやら戦闘の才能があるようだった。そんなものよりは、おいしいミートパイをつくる才能を授けてくれたほうがよほどうれしかったのだが、神さまも意外といじわるだ。両親に連れられて日曜の教会に行ったとき、いねむりしてばかりだったのがバレていたのかもしれない。  特殊部隊は、ルールを守れないならず者の集団だと言われていた。処刑か入隊か二者択一《にしゃたくいつ》を迫られて入隊の書類にサインした凶悪犯ばかりだという話だった。奴等《やつら》は人殺しを屁《へ》とも思わず、ギタイも人類も関係なく二十ミリ機銃をぶっ放す。苛酷《かこく》な任務で戦死《KIA》が絶えないため、いつでも補充の人員を欲している。  ところが、行ってみれば、そこは歴戦の兵《つわもの》の集まりだった。部隊全員が持つ勲章をひとまとめにしたら、オリンピックのウエートリフティング競技で使うバーベルくらいになった。  生死の境をいくどとなく潜《くぐ》り抜けた部隊員は苦境でジョークをとばせる屈強《くっきょう》な野郎どもだ。冗談のほとんどが卑猥《ひわい》な単語なのは困りものだったが、噂《うわさ》と正反対の気のいい人間が多かった。リタはこの部隊が好きになった。  小隊をまとめていたのは、アーサー・ヘンドリクスという名の中尉だった。輝くような金髪と蒼い瞳をした男で、抱きしめたら折れてしまいそうなきれいな奥さんがいた。どんなに小さな作戦の前でもかならず奥さんに電話をするので、隊員にいつもからかわれていた。  男も女も、教会のシスターが聞いたら即死してしまいそうほど野卑《やひ》な言葉|遣《づか》いをする特殊部隊の中で、彼だけは汚い言葉を使わなかった。最初は、リタのことを妹のように扱うのがしゃくに障《さわ》ったが、それもいいと考えた。  時のループに巻きこまれたのは、部隊に入って半年が過ぎた頃のことだ。  後に、戦場の女神リタ・ヴラタスキの名を世に知らしめることになった戦いは、統合防疫軍USにとっても特別な作戦だった。選挙を目前にして再選を目指す大統領は、国民を満足させる大きな戦果を必要としていたのだ。  ありったけの戦車と、飛ばせる限りの攻撃ヘリと、十万を超える装甲化歩兵部隊がフロリダ半島の完全制圧を目標にした作戦に注ぎこまれた。それは、危険で、無謀《むぼう》で、リタが経験した中でももっともタフな戦いだった。  特殊部隊は恐れを知らない古兵《ふるつわもの》の集まりだ。しかし、たったひとつの部隊が絶望的に不利な戦局をひっくり返すことはできない。機動ジャケットは筋力を付与《ふよ》するだけで、超人をつくるのではないのだ。百年以上前に起きた第二次世界大戦のドイツにはひとりで五百の戦車を撃破したエースパイロットがいたが、結局ドイツは戦争に敗《ま》けてしまった。参謀《さんぼう》本部が無理な作戦を立案したら、その作戦はすなわち失敗するのである。  機動ジャケットと呼ばれる棺桶《かんおけ》に詰めこまれた死体がフロリダの地表を覆《おお》った。  ピアノ線よりも細く曲がりくねった死線の上で、リタ・ヴラタスキはかろうじて生き残っていた。パイルドライバは折れてどこかへ行ってしまっていた。残弾は少なかった。二十ミリ機銃は溶接したように手からはがれなかった。吐き気を噛《か》み殺しながら、リタは、仲間の死体からバッテリーを抜きとった。銃身を抱きかかえた。 「ずいぶんと難儀してるようじゃないか」  声が聞こえた。  ヘンドリクスだった。  窪地《くぼち》にはまるように座りこんでいたリタのとなりに腰を下ろし、彼は空を見あげる仕草《しぐさ》をした。すぐそばをスピア弾が疾走し、高く澄んだ叫び声をあげた。黒煙がたなびいていた。ピッツフィールドで見た、燃え上がる夜景が脳裏《のうり》に蘇《よみが》えった。  リタは言葉を発しなかった。  喉《のど》がからからで、唾《つば》を飲みこむことすらできそうになかったから。 「これはお袋に聞いた話なんだが、チャイナの奥地に住む人間はお茶に動物の血を混ぜるんだそうだ」 「……」 「遊牧をして暮らしている民族でね、男も女も子供も全員馬に乗れる。その機動力を生かして、中世にはユーラシア大陸のほとんどを征服したって話だ。無論ヨーロッパも無傷ではいられない。東のほうから一国一国、攻め落とされていく。血を啜《すす》る異民族が押し寄せてくるんだ。怖いだろ? 東ヨーロッパに伝わる吸血鬼伝説ってのは、実は彼ら遊牧民のことなんじゃないかって説があるらしいよ」 「……中尉?」 「こんな与太話《よたばなし》はつまらなかったかな?」 「もうだいじょうぶです、中尉。作戦中、申し訳ありませんでした」 「なに。誰でも息抜きしたいときはあるもんだ。長丁場《ながちょうば》となれば特にね。でも、熱いシャワーまでもうすこしだ。わたしが保証するよ」  そう言って、次の兵のもとに小隊長は駆けていった。リタは戦いを再開した。  そして。  異質な敵を見つけた。  どこが違うというわけでもない。見かけは通常のギタイと変わらないカエルの溺死体《できしたい》だった。でも、なにかが異《こと》なっていた。生と死のはざまに長時間さらされ極限まで研《と》ぎ澄まされた感覚が、普通なら見えない秘密を教えてくれたのかもしれなかった。  そいつを殺したときから、時のループがはじまった。  ギタイには、ネットワークの中心となる個体が存在する。見かけは通常のギタイと変わらない。素人《しろうと》にブタの見分けがつかないように、リタ以外にはわからぬちょっとした違いだ。数え切れぬほど戦っているうちにリタには自然と見分けがつくようになった。どんなに説明しても、その違いに誰も気づくことはなかった。  木を隠すには森の中へ。  将官を隠すには兵の中へ。  群れの中心となる個体はギタイにまぎれて隠れている。そいつを、仮にギタイ・サーバと呼ぼう。  サーバを殺すと、ギタイのネットワークはある種の信号を発する。あとで学者に聞いたところ、タキオンだとかなんだとかいう粒子《りゅうし》は時間を超えることができると言っていたがリタにはよくわからない。とにかく、サーバを殺されたギタイの信号は、時間をさかのぼり過去の自分たちに危険を知らせるのだ。  危険は、未来に起きる出来事の予兆という形で、ギタイの記憶に挿入《そうにゅう》される。予兆を受けとったギタイは危険を回避できるよう行動を修正する。異星の生物が長いながい進化の果てに発見した技術のひとつである。長期的な惑星改造計画が突然のアクシデントで台無しにならないように、自動機械に組み込まれた安全装置だった。  しかし、電気的に繋《つな》がった状態でギタイ・サーバを殺せば、人間も予兆の恩恵に預かることができる。ギタイが過去に送ったタキオン通信は、ギタイも人間も分け隔《へだ》てなく届くのである。人間は、リアルな夢という形で予兆を受けとる。脳の容量のほうが少ないため、ギタイより人間のほうが記憶は鮮明だ。  バックアップを含めたネットワークを破壊してからサーバを倒さねば、ギタイを倒したことにはならない。何度でも作戦を変更し、奴等は人類を踏み潰す最善の手を打つことができる。  一、アンテナを破壊。  二、バックアップ用のギタイを残らず殺戮《さつりく》。  三、過去への通信が完全にできなくなってからギタイ・サーバを倒す。  未来への脱出に不可欠な三つの条件だ。このことに気づくのに、リタは二百十一回のループを必要とした。  誰に言っても信じてはもらえなかった。軍隊というリアリズムの塊《かたまり》の中で、時のループなどというバカげた話を信じる者はいなかった。  繰り返しのない明日にやっとたどりついたとき、リタは、アーサー・ヘンドリクスが死んだことを知らされた。二万八千の戦死者の中に彼も含まれていた。  ひとりで戦史を調べ、ネットワークでギタイの資料を漁《あさ》りつくし、ドジな整備兵にバトルアクスの作成を頼みこんで、無我夢中で戦いつづけた二日間だった。ついにリタは生き残り、未来へと脱出することができた。作戦は成功した。それなのに、ヘンドリクスの名の横にはKIAの文字が書いてあるのだった。  リタは理解した。  これが戦争というものなのだと。  戦闘が起きればかならず人は死ぬ。時のループを手に入れたリタは、これから先、ある特定の人物を助けることはできる。しかし、代わりに、誰かが死ぬだろう。死んだ人間には父親がいて母親がいて友人がいて、もしかしたら弟や妹や恋人や子供たちがいる。二百十一回めのループをもう一度やりなおすことができれば、ヘンドリクスを救うことはできるかもしれない。だけれど、他の誰かがかならず死ぬのだ。たったひとりループに巻きこまれたリタ・ヴラタスキは、誰かを見殺しにしなければ明日へと進むことができなくなってしまった。  戦場で死んでいく一人ひとりは、予定された兵の損失《そんしつ》に含まれるひとりにすぎない。個人が背負っている葛藤《かっとう》も愛情も恐怖も関係ない。誰かが死に、誰かが生き残る。すべては、確率と呼ばれる無慈悲《むじひ》な死神が決定する。  作戦の前、ヘンドリクスは電話をかけていた。子供が生まれたという連絡に喜び、ジャケットの裏側に貼《は》りつけるプリントアウトの画像が汚いと言って怒っていた。本当は帰りたかったのに、彼は作戦を優先したのだった。  二百十二回聞いた電話の声をリタは諳《そら》んじることができた。  戦功により、リタ・ヴラタスキは勲章を与えられた。  ヴァルキリー卓礫《たくれき》撃破章。一戦闘で百体の敵を撃破した者に贈られる勲章だ。あとで聞いたところによると、リタのためにわざわざ創設されたという。それはそうだろう。一度の作戦で百のギタイを屠るなど、この地上でリタひとりにしかできないことだ。  ぴかぴかと光る女神の勲章をリタの胸につけた大統領は、鬼神《きしん》のごとき働きだと、きみはアメリカの誇りだとほめちぎった。  兄弟の死と引き替えにもぎとった勲章だ。  涙は出なかった。  戦鬼《オーガ》は、涙を流さないものだから。    5  リタは北アメリカを転戦した。  戦場の牝犬《ビッチ》の名は轟《とどろ》き、畏怖《いふ》とともに語られた。  時のループを研究する特別チームが秘密|裏《り》に立ちあがった。さんざんリタの体をいじくりまわしたあと、白衣の男たちは、ループによってリタの脳が変質している可能性があるとかなんとか、それが頭痛の原因だとか、なんの答えにもなっていない報告書を書いた。地球上からギタイを駆逐《くちく》できるなら、自分の頭が宇宙の怪電波を受信しようが頭痛でまっぷたつに割れようがどうでもよかった。  リタは戦場で自由に行動する特権を大統領に与えられた。部隊の仲間たちとあまり話さなくなった。持ちきれなくなった勲章は、ニューヨークの賃貸ロッカーに叩《たた》きこむことにした。    6  リタはヨーロッパで戦った。    7  北アフリカ。  次の作戦は東洋の島国だと聞いたとき、リタ・ヴラタスキはそれもいいかと思った。  白人の死体も黒人の死体も見飽きていた。生《なま》の魚をむさぼり食らう東洋人だとて、体をぶった切れば赤い血が噴《ふ》き出るのだろうが。作戦が終われば、リタは、黄色人種の死体も見飽きるようになっていることだろう。    8  ジャパンには鵜飼《うかい》という伝統職業があると聞いたことがあった。  リタ・ヴラタスキと軍の関係は、鵜と鵜飼いに似ていると、リタ本人は思う。  生きていくために必要だからリタは軍に所属する。ギタイを叩き潰《つぶ》し、鵜飼いのところへもっていくのが仕事だ。そのかわり、軍は生活を保証し、わずらわしいさまざまなことを見えない内にかたづけてくれる。ギブアンドテイク。イーブンの関係である。  世界を救う女神の役などまっぴらごめんだったが、必要となればしかたなかった。絶望的な状況下で士気を高めるためには英雄を演じるピエロが不可欠なのだ。  ジャパンの絶対防衛線は崩壊《ほうかい》寸前だった。コトイウシ島を突破されれば本土の臨海工業地帯にギタイの大群が上陸する。最先端の圧延《あつえん》加工技術を備えたジャパン工場群を失うことになったら、統合|防疫《ぼうえき》軍を支える機動ジャケットの性能が三割低下すると言われている。これは、統合防疫軍全体の問題だった。  ギタイのタキオン通信を止められる人間がいなければ、戦いは終わらない。もちろん、圧倒的な戦力を用意してギタイを撤退《てったい》させることはできる。幾度《いくど》となく繰り返して勝てぬことがわかれば、ギタイは最小限の犠牲《ぎせい》で撤退する。しかし、それは敗北ではない。人類の手が届かぬ深海で戦力を整え、たちうちできぬ勢力となったギタイはふたたび襲いかかってくるのだ。  ギタイとの戦争は、勝つまで勝負をやめない子供とやるゲームと同じだ。最初から勝敗は決している。そうやって、人類は版図をすこしずつ減らしていった。  ギタイがつくりだすループはおおよそ三十時間。  リタ・ヴラタスキは同じ時間を一度だけ繰り返すことにしていた。一度めの戦闘で味方の被害を確認し、二度めの戦闘で勝負を決する。どのような作戦だろうと誰が死のうとループは一回。かけがえのない仲間の生死は無慈悲な死神の選択に委ねる。そう決めていた。  戦いの前は精神集中を理由に自室にこもった。戦いの女神の特権で、リタは、誰も立ち入ることができない個室を要求することができた。  作戦前の三十時間がリタにとって特別な時間であることを特殊部隊の隊員たちは理解している。一般の隊員はループする時間のことは知らないけれど、作戦直前の戦女神は積極的に人と話したがらないことを知っていた。距離をとるのは彼らの思いやりである。しかし、自《みずか》らが欲した空間をリタがときおり寂しく感じるのも事実だった。  高い塔の上から、リタはきらきらと輝くパシフィック・オーシャンを眺《なが》める。  フラワーラインと呼ばれる前線基地で、リタがいる場所より高い建物は電波塔くらいしかなかった。  もしもギタイが上陸したら射撃の的《まと》にしてくれと言ってるようなものだ。こんな脆弱《ぜいじゃく》な場所を士官用のラウンジにしていたというのだから、呆《あき》れるというか失笑がもれる。本土の侵略を受けたことのない国はこれだから困る。  ジャパンという土地はそれだけ平和なのだった。もうすこし大陸から離れた絶海の孤島だったらいまごろ全土が砂漠と化しているだろうし、もっと近かったらアジア大陸を侵略する前にギタイはジャパンに上陸していただろう。ジャパンの平和は偶然の幸運によるものだ。  士官用のラウンジとして使われていた場所は無闇《むやみ》に広くなにもなかった。視界一杯に広がるオーシャンビューは一流ホテルとして通用しそうだ。そんな中に、ヘビーデューティーなパイプベッドがぽつんと置かれている様《さま》はことさら滑稽《こっけい》に見える。  リタはスイッチを押す。  液晶が封入された耐爆ガラスが不透明に変化して景色をさえぎった。  寝起きする場に士官専用のレセプションルームを選んだのは、特殊部隊の同僚ができるだけ近寄らない場所を選んだからである。戦闘行為が体の|オペレーティング・システム《OS》に染《し》みこんだ男たちは、射撃の的のような建物の中には一分だっていたくないはずだ。リタだって嫌なのだから。  説明してくれたジャパンの技術者だかなんだかは、カーボン繊維《せんい》を練りこんだガラスは装甲《そうこう》車並みの強度を持っているからだいじょうぶとかなんとか説明していた。そんなに自信がある素材だったら最前線で使えばいいとリタは思う。  まあしかし、人と会わなくてすむのはいい。明日見捨てるかもしれない仲間と顔を合わせずにすむのなら——。  こん、というささやかなノックの音がリタの思考を遮《さえぎ》った。  ラウンジ入口のガラス扉にも液晶は封入されている。いまは不透明だ。  リタは不機嫌な声を出した。 「出撃前の三十時間は気が立っている。自分に近づくなと言ってある」 「……」  ドアの向こうに妙な気配がした。肉食獣に追いつめられた小動物というか、夜道で殺人鬼に追われる少女というか……しまった。シャスタだ。  リタはスイッチを押した。透明になったガラス扉の向こう側に小柄なアメリカンネイティブの女性が現れる。機動ジャケット整備主任シャスタ・レイル中尉だった。階級が上だからといって戦場の女王であるリタが相応の態度を取るわけではないのだけれど、年下で階級も低い人間にむかってバカ丁寧《ていねい》な言葉でしゃべるこの中尉のことは嫌いではない。  ごいん、と音がした。  ガラスに額《ひたい》をぶつけたシャスタがうずくまる。  突然透明になったので、ドアが開いたものと勘違《かんちが》いして進もうとしたらしい。  ヘンな物体を握りしめた手を額にあてて、シャスタは死にかけのセミのように震えている。これで頭の中身は格別だというのだから呆れる。  まあしかし、天才というのはそういうものなのかもしれない。歩兵戦闘の天才と呼ばれるリタだって他人とそれほど違うわけではない。違うのは集中力だ。リタがどんなときも戦闘のことを考えているように、シャスタの頭の中はいま手にもっているヘンな物体できっと一杯なのだろう。  リタは扉を半分だけ開けた。衝突でずれたメガネをなおしながらシャスタが立ちあがる。 「すみません。でも、どうしても見せたいものがあって……本当にごめんなさい」  そう言って下げた額がまたガラス扉と衝突する。今度はカドだった。  ごいん。 「ひ……た、た、た。つう……」  シャスタはまたうずくまった。 「なんというか……中尉はいつ来てくださってもいいんですよ。自分のジャケットを見てもらっているのですから」  シャスタはぴょんと立ちあがった。涙目で。 「ああ! またわたしのことを中尉だなんて呼んで! よしてください。シャスタでいいです」 「いや、中尉……」 「シャスタです! もう! みんなと同じく普通に話してくださいよう!」 「わ、わかった。シャスタ」 「はい」  もう笑っている。 「それで……なに見せたいのだ?」 「そうでした。見てください! すごいもの見つけちゃいました」  シャスタは手を開いた。ちいさなてのひらに乗ったヘンな[#「ヘンな」に傍点]物体をリタはためつすがめつ見る。真っ赤な塗料で彩色した複雑な形状の物体だ。サイズは九ミリの拳銃弾よりひと回り大きい。銃弾をまちがえないように用途別によって弾頭を塗り分けることはあるが、薬莢《やっきょう》まで塗ってしまうことはない。  つまみあげる。  人の形をしていた。 「ね、ね! すごい精密でしょう! この基地の人に教えてもらってタテヤマまで行ってきたんです! あり金はたいて回しちゃいました!」 「回す?」 「コインを入れて回すんですよ。がしゃがしゃってやると、ケースに入ったフィギュアがボンって出てくるんです」 「子供のオモチャなのか?」 「違いますよう。れっきとした大人用のコレクションです。レアアイテムはひとつ百ドル以上で取り引きされることもあるんですよ」 「こんなものが百ドル?」 「そうです」  シャスタは重々しくうなずいた。  ちいさな物体をリタは室内の白い光にかざして見た。よくよく見れば、フィギュアは、機動ジャケットを装着した兵士の姿をしていた。全身を真っ赤に塗りバトルアクスを構えているところを見ると、どうやらこれはリタのジャケット姿らしい。 「よくできたフォルムだ。このフィンなんか本物そっくりじゃないか。機動ジャケットは軍事機密だろうに」 「専門の造形師《ぞうけいし》がいるんです。ぼんやりとしたシルエットからでも本物に近い形をつくっちゃうんだそうです。ジャパン製の原型は特別上等で、オークションでも高い値がつきます」 「世の中には才能を無駄|遣《づか》いする人間がいるものだな」  手の上でくるりとひっくり返す。  足の裏に、MADE IN CHINAと刻《きざ》んであった。 「なんだ。チャイナはまだこんなものをつくる余裕があるのか? 機動ジャケット制御《せいぎょ》用チップの生産も追いついてないと聞いたが」 「労働人口が違いますよ。我が国と同じだけの人間が死んでもチャイナには十億の人間が残っているって言って辞職に追い込まれた上院議員がいたじゃないですか。実際、南部戦線じゃ何百万人も死んでるみたいですけど、物量作戦でなんとか戦線は維持できてるみたいですよ」 「同じ地球の上とは思えない話だ」 「わたしたちの国だって戦争中なのにばかばかムービーつくってますよう」  それもそうか、とリタは思った。  ロクでもないものを山ほどつくる世界を守るために統合防疫軍は存在するのだった。無駄にしか思えないものに心血を注げるというのはすばらしいことだ。人類という種のそういうところは嫌いではない。特に、ギタイを倒すしか能がないリタにとっては。 「まだまだいっぱいありますよ」  作業服のポケットからシャスタはフィギュアをいくつもとりだした。 「このアマゾンの奥地にでもいそうなオバケガエルはなんだ」 「ギタイです」 「ぼんやりとしたシルエットからでも本物そっくりをつくるんじゃないのか?」 「ムービーに出てくるギタイはこういう形をしてるんです。本物といっても、ムービーの中の本物のことです。皺《しわ》のひとつまでムービーに忠実につくるのがフィギュアってものなんです」 「じゃあこれが……」 「それがリタです」  フィギュアのリタ・ヴラタスキは、長身で、やたらと胸がでかく、おまけにブロンドの巻き毛だった。リタ本人とは似ているところを探すほうが難しい。そういえば、役づくりをするとかなんとかで配役の女優と一度話をさせられたことがあった。ジャケット兵に見えるかと言われれば自分も疑問なのはたしかだが、ムービーの主人公に抜擢《ばってき》されたのは、それはどう見ても前線で戦う兵士じゃないだろうというグラマラスな女性だった。  リタとギタイのフィギュアを見比べる。  これなら、ギタイのほうが似ていると言えなくもないかもしれない。 「これ、くれないか?」  似ても似つかない戦場の牝犬《ビッチ》をリタは手にとった。 「え?」 「ひとつくらい持っていてもいいかと思ってな」  そのときのシャスタの顔は見物だった。  幸せに寝ていたところをベッドの上から飼い主に蹴《け》り落とされたネコというか、楽しみにとっておいたチョコナッツタフィの最後のひとつを大好きなお婆《ばあ》さんにちょうだいと言われて泣くのを必死でがまんしている五歳児の顔というか、これがMITをトップで卒業した人間の姿だと知ったら来年の入学生は激減することまちがいなしの顔である。  そこまで考えて、いや、と、リタは思考をあらためる。  あのあたりの大学に入ろうなどという特殊な人間には、かえってこの手のタイプが燃料気化爆弾級の破壊力なのかもしれない。 「冗談だ。からかって悪かった」 「すみません。それ、特別人気のレアキャラらしくて……最後までやってもいっこしか出なかったんです」 「あり金をはたいて手にいれた人間からとりあげたりしない。気にするな」 「本当にすみません……あの、代わりと言ってはなんですが、こっちをさしあげます。これも一応レアキャラなんですよ」 「なんだこれは」 「ムービーに出てくるリタ専属の整備兵です。つまり、わたしですね」  シャスタはえへへと笑う。  絵に描いたような典型的女整備兵のフィギュアだった。ガリガリでそばかすがあって無駄に偏差値《へんさち》が高そうなきつい顔立ちをしている。ボルト一本ナット一個のミスも見落とさない完璧《かんぺき》主義者のハイミスを立体にしたらこうなるだろうという姿だ。本物の天才技術者は、しじゅうロッカーに頭をぶつけているような人間なのだけれど。  シャスタは、うつむき加減で、リタの顔を見上げるようにのぞきこんだ。 「……だめですか?」 「まったく似てないな」 「リタだって似てませんよだ」  ふたりは顔を見合わせる。 「まあいい。お守りにもらっておくことにする」  その後、このフィギュアがどうだそのフィギュアはこうだといういつまでも終わらないシャスタの講義を受けているところにもうひとりの訪問客がやってきた。  ムービーには登場しない人物だ。むしろ、彼の立ち位置はムービーをつくる側に近い。太い首にフィルム式カメラを下げたラルフ・マードックである。 「おはよう。お嬢さんがた」  歓迎できない客に、鉄錆色《てつさびいろ》の眉《まゆ》を片方だけつりあげリタは抗議の表情をつくる。  豹変《ひょうへん》した鉄面女王の顔におののき、得体の知れない巨漢のジャーナリストにやっぱり恐怖をおぼえ、どちらにするかしばらく迷ったあと、結局シャスタはリタの後ろに隠れることを選択した。 「どうやってここまで入ってきた?」 「わたしの肩書きはきみ専属のスタッフということになっているからね。誰も止める者はいない」 「要件はわかった。たしかにおまえは自分のスタッフだ。帰っていいぞ」  直接戦場に出ることはないこの男がリタはあまり好きではなかった。その反面、戦場で死ぬことがない彼やシャスタとはいつでも安心して会話することができた。次の戦場で見殺しにする恐怖を抱かずにしゃべることができた。兄弟ともいえる隊員たちと怖くて話せないというのに、|自分の家《ホーム》でもない場所に土足であがりこむ男と安心して話せる。そのことが、なおさらリタのいらだちを増幅させる。 「せっかく来たのにそれはないだろう。いいネタがあるから教えてあげようと思ったんだ」 「それはよかった。ニューヨーク・タイムズに送って一面に載せてもらえ」 「これから興味深いことがはじまるらしいんだ」 「おまえの興味深いが興味深かったことなどない」 「JPの部隊が基礎訓練《PT》をやるんだ。昨晩のごたごたの懲罰《ちょうばつ》ってことらしいが……」 「もう帰れ。出撃前は気分が悪いのだ」 「おいおい。JP部隊のPTは見ないのかい? なんでもサムライ式のトレーニングをやるって話だぞ。どうせなら、我らが戦女神サマにご見学いただいて、感想を聞かせてもらいたいね」 「おまえは良心が不足しているようだ。生まれるときに母親の体に忘れてきたのだな」 「きみにそんな辛辣《しんらつ》な言葉が言えるとは思わなかった」  マードックは、わざとらしく驚いてみせた。 「面倒《めんどう》くさいので二度めは言わないようにしているだけだ」 「おまけに、ときどきわけのわからないことを言う」 「おたがいさまだ」 「まあいい。良心が不足したって地獄に落ちるくらいだろうさ。インドネシアで、ギタイの群れから泣きながら逃げる子供の写真を撮ってるときにも同じことを言われたからね」 「地獄はやめておけ。ジャーナリストの腕を生かしてサタンのスクープ写真でもすっぱ抜けば、おまえでも裏口から天国へ行かせてもらえるだろう」 「バカにしているのか励《はげ》ましているのかわからない口ぶりだな」  戦女神が笑みを浮かべた。戦場で一番苦しいとき、誰からも見られることのないヘルメットの中で浮かべる微笑だった。  シャスタが硬直する。自分でも意識しないでマードックは後《あと》ずさる。  リタは言った。 「地獄は自分が行くところだ。あの世に行ってまで、おまえの顔を見たくない」    9  結局、リタはPTを見に行くことになった。シャスタは来なかった。となりにいるのはいけ好かないジャーナリストだけだ。特殊部隊の仲間たちはリタから一定の距離をとっている。  挑戦的な目と遭遇《そうぐう》したのはそのときだった。  その男は、この世のすべての呪《のろ》いを込めたような瞳《ひとみ》でリタをじっと睨《にら》んでいた。畏敬《いけい》や憧憬《しょうけい》、怖いもの見たさの視線を浴びることには慣れていたけれど、見ず知らずの人間に、親の仇《かたき》のような瞳で見つめられる経験はなかなかない。ヒトが目から光線を出すことができたなら、きっと、リタは三秒もしないうちにクリスマスの七面鳥《しちめんちょう》と同じ運命になっていたに違いない。  リタ・ヴラタスキは東洋人のその男に興味を持った。  歩きだした。  近づいていく。  ずんずんと、機動ジャケット戦闘に最適化された歩法でリタは歩く。無造作《むぞうさ》なようでいて足音は立てない。ジャケットの機能を百パーセント使いこなすためには、敷きつめた卵の上を歩いてもヒビひとつ入れない完璧《かんぺき》な体重移動が要求される。  男はリタをじっと見つめている。  男の前で九十度向きを変え、リタは、少佐が座っている幕舎《テント》に向かった。  形式どおりの敬礼。  少佐がいぶかしげな視線をリタに注いだ。階級こそ准尉《じゅんい》だが、彼女の所属は統合|防疫《ぼうえき》軍USであり、実質的な力関係は微妙なところだ。  リタはその男のことをおぼえていた。やくたいもないレセプションで、まっさきにリタに握手を求めにきた少将の横にひっついていた少佐である。前線を経験せずに階級をのぼった人間にはよくあることだが、彼もまた、精神論とスタンドプレーが好きなのかもしれない。  リタは無言で立っている。  少佐が口を開いた。 「……なんだね」 「自分も参加してよろしいでしょうか」 「明日は作戦が控《ひか》えているのだぞ」 「彼らも同じであります、自分が所属する部隊はあのようなPTを経験しておりません。自分の参加は、明日の共同作戦における連携を成功させる上で不可欠であると考えます」  少佐はうなったようだ。一瞬だけリタの目をのぞきこみ、不可視《ふかし》の圧力に押されてすぐ顔をそむけた。  遠巻きにしているUS特殊部隊の連中が口笛を吹いてはやしたてる。 「作戦成功のため是非《ぜひ》参加を許可願います」 「う、うむ。よろしい」 「ご配慮《はいりょ》感謝します!」  呪いの視線で睨みつけてきた男の隣でリタは前支《まえささ》えをはじめた。ぴんと張りつめた空気を通して、兵士としては頼りない体が発する熱気が伝わってくる。  兵士は、固まったままだ。  リタも動かない。  高い空で熱気をまき散らす太陽が、ふたりの肌《はだ》をじりじりと焼いている。男にしか聞こえない小さなちいさな声で、リタは、そっとささやきかけた。 「自分の顔になにかついているだろうか?」 「……いや、そうじゃないんだ」  多少イントネーションがおかしいところを除けば、男のバーストイングリッシュは聞きとりやすかった。北アフリカの旧フランス領の住人のほうが、よほどひどいしゃべりかたをする。  多国籍軍が意思の疎通《そつう》を問題なくはかれるように単語数を削《けず》り文法の例外を極力なくしてつくられた言語が高速英語《バーストイングリッシュ》である。この言葉をつくるとき、野郎どもがかならず単語の上につける汚らしい定冠詞《ていかんし》をわざわざ指定単語から削除《さくじょ》したそうだが、荒くれ男は結局ファッキンファッキンしゃべっていたりする。 「さっきからずっと見ていただろう」 「まあ……見ていたといえばそうだけど……」 「自分になにか用があるのか?」 「こんな姿勢で言うことでもないんだ」 「ならば、終わるまで待つことにする」 「キリヤ! 馬鹿《ばか》者! 姿勢をくずすな!」  小隊長の罵声がとんだ。リタ・ヴラタスキは、隣にいる兵士に話しかけたことなんか生まれてこのかた一度もないという顔で、前支えをつづけた。  前支えは、見ているよりもずっとつらかった。髪の生《は》え際からこぼれ落ちた汗《あせ》の粒が、こめかみを伝わり、頬《ほお》を転がり、喉《のど》を通りすぎて胸の谷間へ落ちていく。むずがゆさを我慢しなければならないところが機動ジャケットの装着感を思い起こさせる。サムライ魂《だましい》もまんざらバカにしたものではない。  苦しいときは思考を解放せよ。リタの思考は、酷使《こくし》に文句をたれる腕の筋肉から解き放たれ、周囲の空間の知覚をはじめた。  参謀《さんぼう》本部付の少佐は、予想もしなかった闖入者《ちんにゅうしゃ》にとまどっているようだった。  まともに戦場を経験したことのない彼にとっては、潮風《しおかぜ》の吹くこの演習場が戦場なのかもしれなかった。血と埃《ほこり》と燃える金属の臭気《しゅうき》が渾然《こんぜん》となった戦場の空気を吸ったことのない者は、戦争は戦場で起きているということがわからない。なんでもない出撃前日までを戦場としてよいのは、世界でただひとり、時のループに巻きこまれたリタ・ヴラタスキだけだというのに。  そのうち仲間が現れることを夢に見たこともあった。合い言葉まで夢想したことがあった。それは、リタだけしか知らない言葉でなければならない。リタとその人物だけが共有できる言葉だ。  時のループに巻きこまれる人間が現れるということは、リタ以外の人間が偶然ギタイ・サーバを倒したということである。リタが他の人物を時間の輪の外に置き去りにしたように、その人物はリタを置き去りにして孤独感に震えることだろう。  その人物と同じ時を共有することはできないけれど、アドバイスを与えることはできる。孤独をわかちあうことができる。二百十一回もの戦いをくり返し、死ぬ思いで見つけだした時のループから脱出する方法を教えることができる。  きっとその人物は、リタがそうだったように、とまどいながらも戦いつづけ、優秀な戦士となっていくだろう。  しかし。  その言葉を言ってくれる人がけして現れないであろうことを、リタの心の底にある冷静な部分は知っていた。  ギタイのタキオン通信は進化の果てに見つけだした究極の技術だ。これによって奴等《やつら》は宇宙の覇者《はしゃ》となる権利を得た。フロリダ奪還作戦でリタがループに巻きこまれたのは人類にとってとてつもない幸運だったといえる。この偶然がなければ、人類はギタイの前に滅び去っていたかもしれない。  戦えば戦うほど、英雄視されればされるほど、リタの孤独感は増していった。ループは抜けだしたけれど、いまだって同じ日をくり返しているようなものだ。人類が勝利するという、ただそれだけの希望を胸に、敵をことごとく抹殺《まっさつ》すればどうしようもないこの孤独感がなくなることを期待して。リタ・ヴラタスキは敵を屠《ほふ》りつづける。  戦場はいい。なにも考えずにすむ。悲しみも、大声で笑い合ったあのことも、深く傷ついたあの思い出も、赤い機動ジャケットに潜りこめばすべて忘れることができた。硝煙《しょうえん》渦巻《うずまく》く戦場はリタの場所だから……。  一時間後にPTは終わった。  毒気を抜かれた少佐はそそくさと宿舎へ戻っていった。  リタが立ちあがるのと同時に、となりの男も立ちあがった。  屈強《くっきょう》なジャケット兵の中では背が高いとは言えない男だった。歳《とし》のわりには戦場の服を着慣れたかんじがする。その服が新品に近かったりするものだから、なんだかちぐはぐ感がただよっている。顔にへばりついた|東洋人の微笑《アルカイックスマイル》が、男の年齢をわからなくさせるのに一役買っているのだった。  左手の甲《こう》に、乱雑なアラビア数字で百五十九と殴り書きしてある。なんの数字かは知らないが、奇妙な癖《くせ》だった。この特徴《とくちょう》のおかげで彼はリタの記憶にしばらくの間とどまっていることになりそうだ。ジャケットが標準装備になる以前の戦場では血液型を書いたテープを足の裏に貼《は》ったというけれど、油性ペンで手の甲にメモをとる兵士の話はあまり聞かない。 「話があるそうだな。なんの用だ?」 「あ。うん」 「早くしてくれると助かる。自分は気が短いほうではないが、出撃前日にはやらねばならないことがいろいろあるのだ」 「きみの質問の答えだけど……」  男は言った。ひかえめに言って、新人役者ができのよくない台本のセリフを棒読みするような調子だった。 「ジャパンのレストランのグリーン・ティーはたしかに無料だ」  不覚《ふかく》にも、鉄面女王戦場駆ける牝犬《ビッチ》本当は十九歳のリタは、泣きだしてしまった。 [#改ページ] 第四章 Killer Cage キラー・ケージ [#改ページ]    1 「クソったれ。作戦開始だ。キンタマ落とさねえように気ィ引きしめていけ!」  百五十九回めの戦闘がはじまった。  ぼく、キリヤ・ケイジは、いつものようにケーブルを引きずったまま飛びだす。ジャケットのドップラー波出力を最大限。  あいつだ。  射撃。  伏せる。  頭上をスピア弾が通り過ぎる。 「誰だ! 前に出過ぎだ! 死にたいのかっ!」  小隊長はいつも同じことを言う。  けたたましい音をたてて銃弾が飛び交いはじめた。ヘルメットについた砂をぼくは払い落とす。  一瞬だけフェレウを見やる。  うなずいた。  この[#「この」に傍点]今日で戦闘は終わりを告げる。今日見殺しにすれば、ヨナバルもフェレウも二度と生き返らない。一回限り。やりなおしのきかない勝負だ。死への恐怖とはまた違う、なにが起こるかわからない未来への恐怖がぼくの心臓をわしづかみにする。バトルアクスと機銃を投げ捨てていますぐベッドにもぐりこんでしまいたい。  だけれど。  それが普通なのだ。  ぼくは、不屈の笑みを顔にへばりつかせる。  世界は繰り返さないものだ。誰もが同じ恐怖と戦っている。たったひとつの命を敵の前に晒《さら》している。  リタ・ヴラタスキから聞いたところによれば、ぼくは、実際に時のループを経験したわけではないらしい。百五十八回の戦場を経験したぼくはたしかに存在するのだが、このぼくにとっては実在のぼくではないとかいう話だ。苦痛も喜びも悲しみもジャケットに漏《も》らした小便も、いまは存在しないそのときのぼくにとっては実在でも、いまのぼくには記憶のかけらにすぎない。  経験と経験の記憶は本人にとってはイコールだとかなんとかリタは言ったが、哲学っぽくてよくわからなかった。実のところ、説明したリタ本人もよく理解していないのかもしれない。  小さい頃読んだコミックには、タイムマシンを手に入れた主人公が時間を移動して過去を変えようとする話が載っていた。過去が変わってしまえば、過去を変えようと未来からやってきた主人公は存在しなくなってしまうはずだと思ったけれど、そのあたりの事情をきちんと説明してはいなかった。  ぼくは、ギタイの夢を横から盗み見ていたようなものなのだという。リタに助けられた一回めの戦場で、偶然、ぼくはサーバと呼ばれるギタイを倒した。二回めから百五十八回めまでギタイ・サーバを倒したのはリタだ。しかし、ぼくとのあいだに電気的なネットワークが形成されていたため、ループに巻きこまれたのは彼女ではなくぼくになった。  ギタイの繰り返しは、自分たちに有利なように未来を変えるための能力である。二度め戦場でヨナバルを逸《そ》れて飛んできたスピア弾はぼくを狙《ねら》ったものだし、基地から脱走したときに遭遇《そうぐう》したギタイも偶然ではない。ぼくはずっと、ギタイの群れにつけ狙われていたのである。リタがいなければ、ぼくは易々《やすやす》と敵の餌食《えじき》になっていたことだろう。  戦闘は継続中だ。今日も戦場は混乱で満ちている。  スピア弾の狙撃《そげき》で穴だらけにされないうちに、ぼくは、分隊が隠れているクレータにすべりこむ。作戦開始位置から百メートル海岸寄り。昨晩の爆撃でGPS誘導爆弾がつくった擂《す》り鉢《ばち》状の穴である。  足元に着弾。砂が散った。 「オキナワんときもこんなだったなあ」  土の防壁に背をあずけたフェレウが言った。  弾を撃ち終えたヨナバルが答える。 「ひどい戦いだったっすねえ」 「あんときも包囲されてよ。機関砲の弾がなくなっちまって大変だった」 「縁起《えんぎ》でもないっす」 「でもよ——」  フェレウは遮蔽《しゃへい》から乗りだす。撃つ。隠れた。 「おれのポンコツ頭は、このクソったれな作戦がなんとかなっちまうんじゃねえかと考えてる。単なる勘《かん》だがな」 「軍曹《ぐんそう》が明るいこと言うなんて、今夜は槍《やり》が降ってくるかもしれないっすね」  ヨナバルも撃つ。隠れる。 「そこにいる冗談みてえな新人から目を離すなよ、ヨナバル。ほっといたら、敵の目の前でジルバでも踊りだしそうな勢いだぜ」 「ぼくはジルバなんか踊りません」 「あたりめえだボケ」 「おまえさんが使ってる斧《おの》の化け物、おれも使ってみようかな」 「やめとけ。骨を折るのがオチだ」 「さべつださべつー。ぶーぶー」 「二時の方向! 敵影!」 「団体さんごとーちゃ〜く」 「クソったれ! 戦場のど真ん中だっつーのにこんなでかいファイル転送してきたヤツぁどこのどいつだ!」 「タバコタバコタバコタバコ……吸いてえなあ」 「やかましい! 撃て! 撃て! 撃て!」  遮蔽から乗りだし、敵の一団に向かって小隊は銃を構える。銃弾が空を貫く。ギタイの突進は止まらない。ぼくはバトルアクスを握りしめる。  突然、爆弾が降ってきた。  精密誘導されたレーザー誘導爆弾が岩盤を砕《くだ》き、地中に潜りこんで爆発、陥没《かんぼつ》した地盤がギタイの群れを飲みこむ。  土くれの雨の中には深紅《しんく》の機動ジャケット。  斬《き》る。斬る。ひるがえって斬る。動くものがなくなった。  雑音がヘッドフォンから聞こえた。 「待たせたな」  埃《ほこり》色の迷彩《めいさい》塗装をした小隊の真ん中に、巨大なバトルアクスを抱えたジャケット兵が現れた。ガンメタリックレッドの装甲《そうこう》が陽光に輝く。  ぼくは、軽く手をあげた。 「なに、こっちもいま来たところだよ」 「お、おい……なんで、戦場の牝犬《ビッチ》……?」  遮蔽物に隠れることも忘れて、ヨナバルは深紅のジャケットをほけっと眺めていた。本人を目の前にしてビッチはないだろうと思ったが、事情を考慮《こうりょ》して見逃してやることにする。ヘルメットに隠された表情を見ることができないのが残念だ。  リタはフェレウに言った。 「この隊をまとめる者と話がしたい。繋《つな》いでくれ」  フェレウが小隊長との通信回線を開く。 「繋ぎました」 「自分の名はリタ・ヴラタスキ。三〇一師団装甲化歩兵第十二連隊第三大隊第十七中隊第三小隊隊長に話がある。手短《てみじか》に言う。キリヤ・ケイジを借りうけるが、よいか?」  彼女は所属も階級も言わない。上官がカーキ色だと言ったらカラスだってカーキ色になる階級社会の中で、戦女神リタだけがその軛《くびき》から解き放たれている。一番はじめのクソったれな戦場で死にかけたぼくの頭を抱えてくれたのも、統合|防疫《ぼうえき》軍US特殊部隊所属のヴラタスキ准尉《じゅんい》ではなく、ただのリタ・ヴラタスキだった。  問いかけに答える小隊長の声は震えていた。 「キリヤ……? いえ、作戦行動ならもっとベテランの兵が——」 「リタ・ヴラタスキが頼んでいる。イエスかノーか?」 「イ、イエスです」 「協力、感謝する。というわけだ。軍曹もよいか?」  了解のしるしにフェレウは肩をすくめた。 「すみません、軍曹」 「ウチの隊の近くでジルバを踊るんじゃねえぞ」 「ジルバとはなんの隠語だ?」 「言葉のあやだよ」 「おい……ケイジ、いったいこれはどうなって……」 「すみません、先輩。あとで説明します」 「十二時の方向に突入する」 「あ、うん」 「ケイジ! 売店を見かけたらついでにタバコを頼む」  ニジョーの軽口にリタがくすりと笑った。 「おまえの隊、気にいったぞ。用意はいいか」 「お手やわらかに頼むよ」 「そういうことは自分ではなく敵に言え」 「……もしかして、それ、冗談?」  リタはうなずいたようだ。  陥没した地盤からギタイがわらわらと姿を現す。ふたりのジャケット兵は敵群に突入、あっという間に視界がギタイの姿で埋まった。  走る。避《よ》ける。撃つ。  マガジンを交換する。  また走る。息をする。  群れが潜《ひそ》む位置を探しだし精密爆撃。爆発する。煙が渦《うず》を巻く。すこし遅れて黒い土砂が吹きあがる。もっと遅れてギタイの体がはね飛んでいく。爆心地に駆けこみ薙《な》ぎ払う。薙ぎ払う。根こそぎ薙ぎ払う。  同じ日を繰り返していても、戦場はルーチンワークとほど遠い。斬り込んだバトルアクスのたった一度の角度のずれが生死の境を分ける。生き残った敵は次の瞬間味方の兵に牙を剥く。  味方が死ぬ。戦線が崩《くず》れる。もっとたくさんの兵が死ぬ。ちょっとした違いが思いもかけない形で戦局の変化に繋がる。  無数のギタイがぼくらに迫った。ドップラーレーダは白点で一杯だ。  奴等《やつら》の重量は完全武装したジャケット兵より重い。ヒフのすぐ下にある骨格に穴を穿《うが》つには五十ミリ以上の徹甲弾《てっこうだん》が必要である。一体のギタイを倒すのに、通常、一分隊十名のジャケット兵が必要だと言われている。遮蔽物に隠れ、扇状《せんじょう》陣形から在庫切れになるまで弾丸を浴びせかけて、人類とギタイはやっと対等の戦力になる。  だけれど、リタ・ヴラタスキは動きを止めない。  無造作《むぞうさ》にも見える動きでバトルアクスをふるう。ギタイが吹き飛ぶ。踏み出す。ふるう。吹き飛ぶ。踏み出す。ふるう。吹き飛ぶ。  それは、いままで感じたことがない感覚だった。  死をもたらす敵弾が飛び交い、手を伸ばせば敵に触れられるほど危険な場所にいるというのに、ぼくはやわらかい安心感に包まれていた。  背中をまかせることのできる仲間がそばにいる。ただそれだけの違いなのに、恐怖を恐怖として感じないのだ。ぼくを絞《し》めつけるはずの恐怖は、リタのあたたかい体によって蒸留《じょうりゅう》され、無害な水に変化する。ぼくは死と隣り合わせだけれど、絶対の信頼を寄せる女性《ひと》と背中合わせなのだった。  リタがバトルアクスをふるう姿を真似《まね》ることによって生き残りかたを憶《おぼ》えたぼくは、彼女の癖《くせ》をすべて知っていた。  彼女はどの足から踏みだすか。  どうやって照準をつけるのか。  周囲を囲まれたときどの敵から片付けるか。  どのタイミングで武器を振りまわし、いつ走り出すのか。  もれなくキリヤ・ケイジの|オペレーティング・システム《OS》に刷りこまれている。危険を回避しつつ、最大効率で敵を屠《ほふ》るようにリタは動く。フォローをするということは、彼女にとってもっとも効率の悪い敵から倒していけばいいということだ。ぼくらふたりはまったく違う訓練を受けた兵士だけれど、幾多の戦場を乗り越えて到達した技《わざ》は双子《ふたご》のようにそっくりなのだった。  四体のギタイが一度に襲いかかってきた。  いくらリタでも分《ぶ》が悪い。振りまわしたバトルアクスの慣性で、体が横に泳いでいる。ぼくは、空《あ》いている手で彼女の体をそっと押しやった。一瞬だけ驚いたが、リタはすぐに理由を察した。  やはり、リタ・ヴラタスキは戦闘の天才だ。五分もしないうちに、彼女は、ぼくにフォローされることに慣れた。  ぼくの四肢《しし》のいずれかが自由で、彼女の体を押して敵の攻撃を避けさせることができると判断したときは、避けるそぶりを見せず次の敵にむかった。敵の前|肢《あし》が鼻先十センチに迫ってもまったく気にしなかった。  ぼくらは有機的に接続されたユニットだ。視界の片隅《かたすみ》に互いのジャケットを置きながら、おそるべき勢いで敵を屠る。言葉はいらない。身振りすら必要ない。攻撃の一挙一動、踏みだす足の一歩が互いの意思をあますところなく伝える。  進化の果てに敵が時の巻戻し能力を手に入れたのだとしたら、人類が手に入れた能力は多様性だと言えるだろう。機動ジャケットの整備に秀《ひい》でた者、戦略と兵姑《へいたん》に秀でた者、後方支援に秀でた者、そして、純粋な戦闘能力に秀でた者。人間は、環境と経験によって自己を多様に変化させることができる。それは、危機を前もって察知《さっち》することによって生き伸びてきた敵が持つことをやめてしまったものである。  ゆえに。  戦闘能力に秀でた人類は。  戦場の支配者となるのだ。  リタの癖に従い、ゆるやかな右巻きの螺旋《らせん》を描いてふたりのジャケット兵は突き進む。  ときには無惨《むざん》な骸《むくろ》となりながら百五十八回の死地を駆け抜け、地球上の生物が一生かかっても到達できない高みにぼくは到達していた。戦女神リタはそのさらに上である。ぼくらふたりが通るところ、後に残るのはびくびくと痙攣《けいれん》する死骸《しがい》の山。敵も味方も置き去りだ。  戦闘開始から四十二分。  ぼくはそいつ[#「そいつ」に傍点]を見つけた。クソったれなループをつくりだしている元凶。ぼくらふたりを結びつける一本の糸。ギタイ・サーバ。こいつのせいで、ぼくは血反吐《ちへど》を吐き、内臓を地面にぶちまけ、いつ終わるとも知れない戦場をさまよった。こいつのせいで、ぼくは、リタ・ヴラタスキに出会うことができた。 「大詰めだぞ、ケイジ。サーバの始末はおまえがやらなければならない」 「ああ。わかった」 「やりかたは憶えているな? まずおまえがサーバのアンテナを破壊する。次に、自分がバックアップ用のギタイを見つけて倒す。息の根を止めるのはその後だ」 「それで終わり?」 「ばかもの。そこからが繰り返しのない本当の戦闘なのだ。最後の一体を倒すまで戦いは終わらない」 「そ、そうか。そうだった」  防疫戦闘は殲滅《せんめつ》戦である。兵力の三割を削《けず》れば全滅と表現する現代の戦闘において、文字通り最後の一匹まで駆逐《くちく》しなければならない。ギタイ・サーバを倒しても戦闘はつづく。ぼくらにできるのは、敵がつくりだすループから部隊を救いだすこと。戦闘を勝利に導くには、また別の努力が必要となる。そして、ぼくが死んでもリタが死んでも、ヨナバルもフェレウも小隊の仲間も第四中隊の嫌味な奴も、誰が死んでも時計が巻き戻ることがない新しい一日がやってくるのだ。  ギタイ・サーバの倒しかたは缶詰《かんづめ》の開けかたと一緒であるとリタは言う。缶切りで開ければいい。問題は、サーバをこじ開けることのできる缶切りが、いままではリタ・ヴラタスキの手にしかなかったということだ。  地球の支配者たちよ。おめでとう。人類は、キリヤ・ケイジというふたつめの缶切りを手に入れた。いまリタという缶切りを買えば、なんとお得なことに二個セット! テレビショッピングみたいにもれなくぼくもついてくる。  バラ売りはなしだ。リタもぼくも悪どい商売人なのだ。誰がなんといおうと、ぼくらが離れることはないだろう。はじめて見つけた同じ時を過ごせる人と離れ離れになるなんて考えられない。クソったれなこの戦争が終わるまで、ぼくとリタは、ふたり並んで敵を屠りつづけるのだ。  アンテナを破壊した。 「終わった!」 「バックアップ破壊!」 「いくぞ!」  バトルアクスを構え、勢いよく振り降ろす——  ぼくは、ベッドの中で目をさました。  ぼくは、思いきり壁を殴りつけた。  ぼくは、油性ペンで、左手に百六十と書きこんだ。    2  相手が泣きだすとわかっている言葉を口にするのはとても気恥《きは》ずかしい。  大勢の仲間に囲まれていると恥ずかしさはさらに上昇する。ヨナバル・ジンがいたりしたら事態は最悪だ。なのに、前回のぼくはちょっぴりカッコつけたセリフなんぞを言ってしまったりしているのだった。いまからでも考えなおしたいが、ぼくが時のループを体験していると一発でリタに通じるキーワードというのがなかなかなかったりする……普通に言えばいいのかな。ちくしょう。なにも思いつかない。  たいして出来のよくないぼくの頭は、脱出できるはずのループを脱け出せなかった疑問でいっぱいだった。リタの言ったとおりやったはずなのに、キリヤ・ケイジは、こうして百六十回めの出撃前日にいる。  第一臨海演習場の空は、百六十回めの今日も普段とまったく変わらず高く澄みあがり、午前十時の太陽が強い日射しを容赦《ようしゃ》なくぼくらに叩《たた》きつけていた。クソったれな基礎訓練《PT》は終わったばかりで、足元にまとまった影の中に蒸発しきっていない汗《あせ》の染《し》みが点々と残っていた。  ぼくの目の前には、ぼくのことを知らないリタ・ヴラタスキが立っている。錆色《さびいろ》の髪と、兵士にしてはめずらしく日焼けしてない肌《はだ》。焦茶《こげちゃ》の瞳《ひとみ》でぼくを凝視《ぎょうし》していた。 「話があるそうだな。なんの用だ?」  時間切れだ。新しい言い回しを考えつかなかった。  こんなことならPTの前に彼女に接触しておくのだった。  しかたない。  リタにむかってぼくは前のときと同じ言葉を言った。グリーン・ティーがどうのこうのというアレだ。  それでも一回めよりはうまく言えたんじゃないかと思うが。自分でも上出来の部類に入ると思うが……いや、思いたい、けれど……クソったれ。  鉄面女王の頬《ほお》を涙の線がつうっと伝わり、とがった顎《あご》の先から落下した。涙の雫《しずく》が宙を舞い、さしだしたぼくのてのひらに当たってはじけた。運動を終えたばかりの手はもともと火照《ほて》っていたというのに、二十ミリ徹甲弾《てっこうだん》が直撃したみたいに熱く感じた。ぼくの心臓はどきどきしていた。はじめて恋心を伝えるジュニアハイスクールの生徒になってしまったようだった。作戦開始の直前だってここまで緊張したことはなかった。  リタは、ぼくのシャツの端をぎゅっと握りしめている。力を入れすぎて指の先から血の気がなくなっていた。戦場では次にリタがなにをするか手にとるようにわかったのに、日常生活の場ではまったくわからない。ギタイの攻撃なら千回でも二千回でも余裕で躱《かわ》せるOSは肝心《かんじん》なときにかぎって役立たずだ。ぼくは突っ立ったまま、汗で濡れた部分に彼女の手が触れてしまわないかとか、そんなどうでもいいことを心の底から心配していたりする。  平静をとり戻したリタが話しかけてくるまで、前のループのキリヤ・ケイジはぴくりとも動けず固まっていたのだった。  十回くらい繰り返せば、これもルーチンワークになって、泣きだしたリタをやさしくなぐさめたりごく自然に肩を抱いたりできるのだろう。しかし、それは同時に、やっとめぐり会えたかけがえのない女性《ひと》相手に決まりきった作業をしなければならないということでもある。それよりは、でくのぼうと化して突っ立っているほうがいいと、ぼくは思う。  突然ワルツを踊りだした動物園のクマを見る目つきで、ヨナバルがぼくらを見ていた。いつもならまっさきに飛び出す軽口もなかった。古参《こさん》兵のフェレウは行儀《ぎょうぎ》よく視線をそらし、それでもしっかり視界の端にぼくらふたりを捉《とら》えている。他の隊員も似たりよったりだ。えいくそ。ぼくだってワルツを踊っているクマになった気分なのだ。じろじろ見るな。しゃべるな。金をとるぞ。  緊張しているときには手に人という字を書いて飲みこむのだったかいやそれは大観衆の前で緊張しない方法だったか。訓練校で習ったはずだ緊張で神経がバラバラになりそうなときは楽しいことを考えるちくしょういままさにここで起きていることが楽しいことで戦場で思いだすべきことである気がする。それなのになんでこんなに大変なんだ。誰か教えてくれ。この際だから神さまでもいい。  リタの手首を握った。彼女はとまどったような表情だ。 「ぼくの名はケイジ。キリヤ・ケイジ」 「リタ……ヴラタスキだ」 「とりあえず、はじめまして、かな」 「なぜ笑う?」 「さあ、なんでかな。すごく楽しいからじゃないだろうか」 「おかしなやつだ」  ほんのすこしだけ、リタの顔もやわらかくなった。 「二時の方向に脱出する。用意はいい?」  呆然《ぼうぜん》とする野郎どもを残してぼくとリタは走りだす。コンクリートの上に溜《た》まった熱い空気と一緒に演習場の金網《かなあみ》をくぐり抜け、潮《しお》の香りのするさわやかな風にとびこむ。そのまましばらく駆けつづけた。左手|遙《はる》か遠方に海岸線。防御《ぼうぎょ》になりそうもない鉄条網《てつじょうもう》の向こう側にコバルトブルーの海が広がっている。敵の侵略から守られた青の海だ。空と海を真っ二つに分けるラインの上を、白い軌跡《きせき》を引きずった哨戒艇《しょうかいてい》がぼくらと同じように走りまわっていた。  男たちの野太い声が聞こえなくなった。  聞こえるのは、潮騒《しおさい》と、コンクリートを蹴《け》りつける軍靴《ぐんか》の音と、うるさいくらいのぼくの鼓動《こどう》と、リタ・ヴラタスキの吐息《といき》——。  走りだしたときと同じようにぼくは突然立ち止まった。  勢いを殺しきれないリタがぼくにぶつかる。またもやOSは誤作動。ぼくの足があらぬ方向へ、ずん、ずん。リタもバランスをとって、ずん。踏みしめる。たがいの体にしがみつく。ぼくの腕がリタの体に、リタの腕がぼくの体に絡《から》みついた。  反則スレスレの衝撃だった。弾力のある筋肉がぼくの体をリアクティブ・アーマみたいに押し返してくる。おまけになにか、いいにおいまでしやがった。機動ジャケットを着ていないぼくは、空気中にばらまかれている化学物質に無防備状態でさらされているのだ。 「あ……ああ、すまない」  先にあやまったのはリタだ。 「こ、こ……こっちこそ。急に止まったりして」 「いや。すまないが——」 「もういいんだ」 「そうではない。そろそろ手を放してくれないだろうかと思ってな」 「ごめん!」  力をこめて握りつづけていた手首に、リング状の赤い跡がついていた。 「本当にごめん」  一緒に戦術を組み、戦場を駆け抜け、ぼくはリタ・ヴラタスキと十年来の友人になったつもりなのに、彼女にとってキリヤ・ケイジは出逢《であ》ったばかりの異邦人だ。いまこの瞬間まで、リタから見たぼくは、時の流れの外側にいる灰色のシルエットだった。  背中を合わせたときの安堵《あんど》を知っているのはぼくだけ。視線が絡みあったときの電流が流れたような意思の疎通を憶えているのもぼくだけ。あこがれに似た感情を抱いているのもぼくだけなのだった。  入隊する前に見たビテオ・プログラムの中に、事故で恋人が記憶喪失になる物語があった。ドラマの主人公が感じていたのは、いまのぼくが感じているものと同種のさびしさだ。大好きだった砂糖菓子が風に吹かれて消えていくのをなにもできずに見ているような、そんなやるせない気持ちだった。 「あの……ええと……」 「機転を利《き》かせて連れだしてくれたのだろう?」 「それはまあ、一応はそうだけど」 「ならばよい。ところでこのだだっ広いところはどこだ」  リタは周囲を見回した。  一方を鉄条網、残る三方を金網に囲まれたなにもない空間だった。およそ一万平方メートルの面積に敷きつめたコンクリートはあちこちひび割れ、隙間《すきま》からこまかい雑草が芽を出している。海から吹く風は第一臨海演習場よりもだいぶ荒々しく、磯《いそ》の匂《にお》いも強かった。 「……第三臨海演習場だ」  演習場を抜けだしてまた演習場に来るとは、ぼくの頭はどこまでクソったれなのか。長いことフェレウと一緒にいすぎたせいで、ぼくにもトレーニングハイの病《やまい》が感染してしまったらしい。 「はげしくなにもないところだな」 「ごめん」 「あやまる必要はない。なにもない空間は嫌いではない」 「それは……めずらしい趣味だね」 「そんな趣味があるものか。自分が育ったところも無闇《むやみ》となにもないところだったのだ。海はなかったがな」 「そうなんだ」 「海に囲まれた土地の空は澄んだいい色をしている」 「空が……好きなの?」 「空が好きというより空の色が好きなのだろう」 「それなのにジャケットは赤?」  すこしのあいだ沈黙があった。 「ピッツフィールドの空はここよりずっとずっと薄かった。たとえて言うなら、青い絵の具がついた筆を洗ったあとの水のような色だ。陸にあるべき水がすべて空にのぼって、色を薄めてしまったのではないかと思えるくらい……」  ぼくはリタを見つめた。  焦茶の瞳で、リタはぼくを見返した。 「悪かった。いまのは忘れろ」 「なんで?」 「いまの言葉はリタ・ヴラタスキらしくない」 「そんなことないよ」 「そんなことはある」 「そんなことない。何度聞いてもいい言葉だ」  リタは目を見開いた。おだやかだった表情の中に、一瞬だけ、戦場の牝犬《ビッチ》の眼光が戻る。 「なんだと?」 「何度聞いてもいい言葉だ、って言ったんだ」  彼女はなぜか、ほっとしたような顔をした。そうして、額《ひたい》までもちあげた手で錆色の髪をもてあそんでいる。指の隙間から見え隠れする瞳に、いままで見たことがない複雑な光が浮かんでいた。張りつめていた心の糸がほどけたような、嘘《うそ》をついていた少女がお母さんの前ですべてを明かしたような、そんな顔に見えた。 「どうしたの……かな?」 「いや」 「か、からかうつもりじゃなかったんだ。言おう言おうと思ってたんだけど、その、うまいことタイミングが見計れなくて……」 「以前のループで自分らは似たような会話をしているのだな。そして、おまえだけがそれを記憶にとどめている」 「そう……ごめん」 「気を悪くしたわけではない。あやまる必要はない」 「じゃあ、どうしたの?」 「これからの予定を教えてくれ」 「いろいろと事情が複雑なんだよ。ぼくにもわからないことがたくさん。ループの脱出方法とか詳《くわ》しく聞きなおさなきゃならないし」 「自分は行動の予定を聞いているのだ」 「からかってる?」 「大|真面目《まじめ》だぞ」 「じゃあ、本当にこれからの予定が知りたいわけ?」 「未来の予定を人から聞くのははじめてだ。自分がループに巻きこまれるよりずっと楽しい」 「ちっとも楽しくないよ」 「リタ・ヴラタスキが楽しいと言っている。いままで自分がひとりでずっと働いてきたのだ。次はおまえが苦労する番なのは自明であろう」 「まいったな」 「ケイジ、もったいぶるな」 「時間は早いけど、行き先は食堂だ。きみはジャパンのフードが食べたくなる」  百五十九回メシを食った第二食堂へぼくらは向かった。  食堂は喧噪《けんそう》であふれていた。  片隅《かたすみ》で、三分間で何回腕立て伏せができるか競争している連中がいた。  マスタードなのかオレンジジュースなのか見分けがつかなくなった混合液体をどれだけ飲めるか意地の張り合いをしている連中がいた。  一番奥では、バンジョーをかきならして、七十年以上前に流行《はや》ったフォークソングだかアニメの歌だかを能天気に唱《うた》ってる連中がいた。もともとは電波宗教が使いはじめた反戦の歌らしいのだが、細かいことを気にする奴《やつ》は統合|防疫《ぼうえき》軍などに入隊しない。メロディーがおぼえやすいので軍の連中にも人気のある歌なのだった。  統合軍に入ろう〜♪〜 入ろう〜♪〜 入ろう〜♪  目の前に広がっているのは百五十九回見た光景だ。ループする世界の住人だったぼくは、世界ではさまざまなことが起きているのだと気づいていなかった。待ちうける実戦と毎日の訓練のために、ぼくは、灰色で、音のしない食堂で、味のしない飯を黙々と消化器官に送りこんでいた。  作戦が成功したとしても、ここにいる何人かは帰還《きかん》できない。失敗すれば死者の数はさらに増える。誰もがそれを知っている。装甲《そうこう》化歩兵は、銃弾を袋に詰めこみ敵に殺戮《さつりく》を届けるサンタクロースだ。だからこそ、クリスマス前夜のごとく、作戦前のたった一度きりの一日を精一杯楽しむのだった。  リタ・ヴラタスキは、ぼくの目の前に座って、百六十回めとなるランチを食べた。  梅干しも百六十個めだ。  もちろん、ぼくは、教えてなんかやらない。 「これはなんだ?」 「|梅の実《プラム》を天日《てんぴ》に干したあと漬《つ》けこんだ食べものだよ」 「どんな味がする?」 「実戦も食事も自分で身につけなきゃね」  二、三度|箸《はし》でつついたあと、意を決して彼女は口の中に放りこむ。スーパーヘビー級ボクサーのボディーブローをくらったように背を折り曲げてひくひくと震えた。 「おいしい?」  うつむいたままリタは口を動かしている。  白い喉《のど》がこくりと動いた。  なにかを吐きだす。  きれいに実を剥《は》がれた梅干しの種《たね》がトレイの上に転がった。口のまわりをぬぐう。彼女はぜいぜいと息を吐いている。 「すすす、すっぱくなんかないぞ」  強がった。 「この食堂のはあんまりね。全国から人が集まってるからそれほどキツいのは置いてないんだ」  ぼくは自分のトレイから梅干しをつまみあげ、ぱく。見せつけるようにゆっくりと味わって食べる。本当は口が*マークになるくらいすっぱいのだけれど痩《や》せ我慢した。 「おいしいよね」  リタが立ちあがった。顔がマジだった。  あっけにとられるぼくを席に残し、男どもが群れている通路をちょこまかずんずんと歩いて配膳《はいぜん》のカウンタに向かう。  カウンタでは、腕を伸ばせば天井に届きそうなゴリラモドキと健康そうな肌の美女が話をしている。ずいぶん前のループでぼくの顎に鉄拳《てっけん》を叩きこんだ第四中隊のあいつだ。おそらく話題にしていた当の本人が突然向かってきて、ゴリラモドキとレイチェルは面喰《めんく》らっているようだった。  甲高《かんだか》い声でリタは言った。 「自分の名はリタ・ヴラタスキ。ここにあるプラムの天日干しとやらをくれないか?」 「……ウメボシ、のこと、かしら?」 「そいつだ」 「え、ええ。こんなのでよければ……」  小皿をとりだし、プラスチック製の大きな樽《たる》からレイチェルは梅干しを盛りつけようとする。 「そのままでいい」 「はい?」 「左手に抱えているそれ、そう。それだ。そのままくれ」 「あの……梅干しですよ? これ。ジャパニーズ・ピクルス。OK?」 「だめなのか?」 「いいですけど……」 「協力、感謝する」  戦利品の樽を抱えてリタは帰還した。  テーブルの真ん中にでんと置く。  直径三十センチはある容器だった。小さな猫が落ちたら溺《おぼ》れてしまうかもしれない。そんなでかい樽の中半分くらいまで、真っ赤な梅干しがぎっしりと詰まっている。二千人の男どもの腹を満たす業務用の梅干しなのだ。見ているだけで舌《した》のつけ根がうずうずとしてくる光景である。  渦巻《うずま》く梅干しの中からひと粒を選びだし、リタは口の中に放りこんだ。  もぐもぐ。ごくん。ぺっ。種が転がった。 「すっぱくなんかないぞ」  目尻《めじり》に涙が浮かんでいる。  彼女は樽をずいと押した。次はぼくに食べろということらしい。  できるだけ小ぶりのひとつを選びだし、口に入れる。  食べる。種を吐きだす。 「ぼくもすっぱくなんかない」  チキンレースだ。受けてたとう。  先端がぶるぶるとふるえている箸をリタは樽につっこんだ。二度つまみそこね、そのまま箸の先端を実にぶっ刺して口にもっていく。果肉からしたたり落ちた汁《しる》がトレイの上に薄紅色《うすべにいろ》の染みをつくった。  ぼくらのまわりに、なにかおもしろい見せ物を期待する野次馬《やじうま》が集まりはじめた。最初はかたずを飲んで見守っていた男どもも、転がる種の数が増えるにつれて徐々にヒートアップしていく。  夏場の冷えきったビール瓶《びん》さながらにだらだらと脂汗《あぶら》を浮かべながら、ぼくらはおぞましい種の山を築く。  ふたりが交互に梅干しを口に投げこむたび、とり囲んだ野次馬が喚声《かんせい》をあげた。男たちの中には第四中隊のあいつもいた。ぼくにケンカをふっかけたときとはうってかわって楽しそうな顔をしていた。レイチェルはすこし離れところで、困ったようなうれしそうな微笑を浮かべていた。  なにやってんだペースが遅いぞ。いまさらびびってどうするバクっといけバクっと。女に負けたら承知《しょうち》しねえからな。なに言ってやがる我らが女王が負けるわけねえだろうが。食え! 食え! 食え! ひゃっほう。誰か出口見張れ、うるさいのを入れんなよ。おれは男に十ドル! 女に二十ドル! この野郎どさくさにまぎれておれのエビフライを!  あたたかくてうるさくてそれでもなんだか居心地のいい空間がぼくらをとりまいていた。終わりのないループの中で生きていたぼくには理解できなかった絆《きずな》だった。かけがえのない明日を手に入れてはじめて、目の前にあるどうでもいいことが、ぼくは、ひどく大切に思えるのだった。喧噪の中に身を浸《ひた》すのがいまは心地好く感じられる。  業務用の樽に詰まった梅干しを、ぼくらは、結局食べきってしまった。  最後の一個を食べたのはリタだった。ぼくが引き分けを主張すると、自分から食べはじめたのだから自分の勝ちだとリタは高らかに宣言した。ぼくは抗議した。ならばもう一樽いくかとリタは薄笑いを浮かべた。本当にまだ食べられるのか、すっぱいものの食べすぎて頭がおかしくなっているのか判断のできない笑みだった。第四中隊のゴリラモドキが、赤い悪魔の実が満載の樽をテーブルの中央にどすんと置いた。  そのときのぼくは、足の指先から腰あたりまで体にぎっしり梅干しが詰めこまれている、そんな気分だった。ぼくは白旗をあげた。  そのあと、ぼくはリタにいろいろな話をした。おしゃべりなヨナバル、トレーニングハイの軍曹《ぐんそう》フェレウ、ぼくらを目の仇《かたき》にしている第四中隊。リタは、前の今日に話しきれなかったたくさんのことを話してくれた。戦場にいない牝犬《ビッチ》は、はにかむような笑顔が似合う女性だった。彼女の指先は、機械油と、梅干しと、それとかすかに、コーヒーのにおいがした。  どこかでなにかのフラグが立ってしまったかのように、百六十回めのこの[#「この」に傍点]今日、ぼくとリタの関係は急速に深まっていった。  ヨナバル・ジン伍長《ごちょう》は、二段ベッドの上段ではなく、床の上で翌日の朝を迎えることになった。    3  ぼくにとって睡眠は休息ではなかった。  ギタイにぶっ殺されるか、あるいは戦闘中に突然意識が途切れる。その先はなにもない。意識はなんの前触れもなく切り換わる。トリガを絞《しぼ》っていたひとさし指が、ペーパーバックの終わりから四分の一くらいのところにはさまっている。ヘビーデューティーなスチールパイプのベッドに横たわり、ぼくは、アニメ声のDJが読みあげる天気予報を聞いているのだ。今日の諸島方面は快晴。午後から紫外線注意報。日焼けのしすぎに気をつけて。言葉のひとつひとつが耳の奥にこびりついて離れないくらいである。  DJが「しょ」と言ったところでぼくは油性ペンをつかみとり、「ほうめん」で左手に数字を記入、紫外線注意報うんぬんと言う頃にはベッドをとびだして倉庫へ向かっている。これが一日めの起床だ。  作戦を明日に控《ひか》えた夜の睡眠は訓練の延長である。どうせぼくの体に疲労は溜《た》まらない。蓄積するのは繰り返しの記憶と身につけた技《わざ》のみ。寝返りをうちながら、昼間おぼえた体の動きを頭の中でシミュレートし、プログラムを小脳に焼きつける。前のループでできなかったことがこのループでできるように、倒せなかった敵が倒せるように、救えなかった仲間が救えるように。ぼくはかならずうなされる。  この日も、起きた瞬間にぼくの意識は戦闘モードに入った。  寝転がった体勢で肉体に張りめぐらされた筋肉の状態を確認。離陸直前の戦闘機に乗りこんだパイロットが次々とスイッチを入れるように、体の部位《ぶい》をひとつずつ点検していく。小指一本でもおろそかにはしない。ぼくはこれから、三百七十キログラムの握力がある兵器を身にまとうのだ。  尻《しり》を支点に体を九十度回転、そのままベッドの外に飛びだす。目を開く。  ぬかった。  目に映る風景がいつもと違っていた。水着ギャルの首にのっかった首相の顔がない。気づいたときには手遅れだ。慣性の法則に従って動きだしたぼくの体はあるはずのない台を踏み外し、ベッドから転がり落ちる。タイル張りの床に思いきり頭をぶつけて、どこにいるのかやっと気づいた。  耐爆|仕様《しよう》の積層《せきそう》ガラスを通り抜けた陽光が無駄に広い室内を照らしていた。空気清浄器がつくりだす人工的な空気が、床に這《は》いつくばるぼくの体を覆《おお》っている。いつもならうるさいほど聞こえる前線基地の騒音を、ぶ厚い壁とガラスが完璧に遮断していた。  スカイラウンジである。  スチールとカーキ色の不燃材で構成された前線基地の中で唯一《ゆいいつ》まともな内装を施《ほどこ》してあるところだ。もともとは士官専用の会議室兼レセプションルームとして使われていた場所で、耐爆ガラスから眺《なが》めるウチボーの夜景は、見物料をとっても客が来るんじゃないかってくらい見事なのだそうだ。  見晴らしはいいが、どう考えても寝起きするには適していない。高いところにすぐ登りたがる山羊《やぎ》か、誰とも顔を合わせたくない人間にしか用はないだろう。士官しか入れない場所のさらに一階層上に、ヨナバルが女の子を口説《くど》くときに使う秘密のスペースがあるとかどうとか聞いたことはあるけれど。  この場所から海を見渡せば、水平線がちゃんと曲線を描いているのが見える。朝のウチボーはたちこめる靄《もや》でぼんやりと霞《かす》んでいた。波の三角が発生しては泡《あわ》となって消えていく。その先に、ギタイの巣窟《そうくつ》と化した島があるのだった。  一面のブルーの中に鮮かな緑を見た気がしてぼくは目をしばたたかせる。  ただの波のきらめきだった。 「よく眠っていたようだな」  リタの声がした。  床のタイルの上でぼくはのろのろと首をもちあげる。 「一年ぶりくらいな気がする」 「なにがだ?」 「きちんと寝て起きるのが。寝るのって、実はすごく楽しいことだったんだな」 「おまえはときおりバカなことを言う」 「きみならわかるだろ」  わかったわかったという風《ふう》にリタは手を振った。  今朝の戦女神は昨日までよりずっと落ちついて見えた。いつもは鋭い眼光が冷たい朝の光の中でやわらいで見える。錆色《さびいろ》の髪が陽光に透けてオレンジ色のハレーションを起こしている。ぼくに向かってしょうがない奴《やつ》だなという表情をしているリタは悟りを開いた僧侶《そうりょ》のようにおだやかで、そのうえとてもきれいだった。  わけもなくまぶしくなり、ぼくは、太陽を直接見上げたときのように目を細めた。 「ところで、なんのにおい? これ」  空気清浄器が濾過《ろか》したクリーンな空気の流れに乗って、悪くないがよいと言い切ってしまうのも微妙なかんじがする香りの微粒子《びりゅうし》が宙をただよっていた。食品にしては刺激が強い香りのような気がするし、香水にしては食欲方面に偏《かたよ》りすぎている気がする。正直言ってなんだかよくわからない香りである。 「袋を開いただけでわかるか。おまえはずいぶんと鼻がいい」 「憶《おぼ》えのない臭気《しゅうき》はジャケットのフィルタ損傷《そんしょう》の可能性があるから常《つね》に気をつけるべしって訓練校で習った……まあ、これは戦場での話なんだけど」 「食品の香りを化学戦と一緒にするやつがあるか。いい匂《にお》いだろう?」 「いいっていうか……ちょっとブキミなかんじ」 「失礼な奴だ。せっかくモーニング・コーヒーを淹れてやろうとしているのに」  リタはすこしばかり憤慨《ふんがい》してみせた。 「これがコーヒーの香り?」 「そうだ」 「梅干しの仕返しにからかってない?」 「土に植えたコーヒーの木になったコーヒーの豆を焙煎《ばいせん》するとこういう香りになる。飲んだことがないのか?」 「代用品なら毎日でも」 「抽出《ちゅうしゅつ》したらもっと強くなるぞ」  天然のコーヒー豆なんてものがこの世に残っているとは知らなかった。いや、物体として残っていることは知っていたけれど、それを飲む習慣が残っているとは考えていなかった。  一般にコーヒーという名で呼ばれる飲料の素《もと》は、代用の豆に合成フレーバで香り付けしたものである。代用コーヒーの粉末は、リタが挽《ひ》いた豆ほど香りが強くなかったし、鼻から喉《のど》の奥にかけた一帯を攻撃するなんだかよくわからない刺激もない。代用コーヒーの延長線上に天然コーヒーの香りがあると言われればなるほどそうかという気がする。しかし、香りが鼻腔《びこう》を通り抜けるときの衝撃は、九ミリの拳銃弾と百二十ミリの戦車砲弾くらいの隔《へだ》たりがあった。 「ひょっとしてすごく高価なものだったりする?」 「ここに来る前、北アフリカ戦線にとばされたと話しただろう。解放した村の人々が礼だと言ってくれたものだ」 「すごいや」 「女王サマの立場も悪いことばかりではないというわけだ」  ガラス製テーブルの上に手回し式のコーヒーミルが置いてあった。アンティークショップでインテリアとして売っているのを見たことがあるからまちがいない。その隣に、陶器できた漏斗《ろうと》状の物体。物体には茶色く変色した布がかぶせてある。よくわからないが、布の中央部分に挽いた豆を入れるらしい。  軍で支給される野戦用の携帯用ガスコンロと軍隊式のヘビーデューティーなソースパンがテーブルの上に鎮座《ちんざ》していた。ソースパンの中ではぼこぼこと透明な液体が沸騰《ふっとう》している。へこみのついたマグカップに、おろしたてのマグカップ。一番端に、焦茶色《こげちゃいろ》をした豆が入ったジップ式のビニール袋が置いてあった。  リタの私物はずいぶんとすくないようだった。テーブルの足元に、シーバッグと呼ばれるキャンパス地の袋が置いてある。ボクシングのサンドバッグのような形をした袋だ。広大な部屋のどこを見回してもそれ以外の荷物はない。コーヒーの道具をとりだしただけで、リタのシーバッグはぺちゃんこになっている。命令が下れば地球上のあらゆる場所へ赴《おもむ》く兵士は最小限の荷物の携行《けいこう》しか許されていないとはいっても、リタの荷物はすくないほうだ。手回し式のコーヒーミルを持ち歩くだけで、十分変わっているという考えかたもあるけれど。 「ベッドで待っていてもいいんだぞ」 「おもしろいから見てるよ」 「では、いまから豆を挽く」  リタはコーヒーミルのハンドルを回した。ガリガリと音をたててガラス・テーブルが振動する。錆色の髪も楽しげに揺れた。 「この戦いが終わったら、コーヒーのお礼に最高のグリーン・ティーをごちそうしてあげるよ」 「グリーン・ティーの産地はチャイナだと聞いたが?」 「むこうが元祖ならこっちは本家ってとこかな。むかしから海外に輸出はしてなかったみたいだけど。なにしろ——」 「レストランに入ると無料で出てくるのであろう?」 「そう」 「この戦いが終わったら……か」  リタはすこしだけさびしそうな声を出した。 「だいじょうぶだよ。この戦争は絶対終わる。きみとぼくがいるんだから」 「そうだな。おまえがいれば、きっと終わる」  挽いた豆をとりだし、リタは、布をかけた漏斗状の物体の上に敷きつめた。 「まず蒸らすのが肝心《かんじん》だ」 「そうなの?」 「これをするとしないとでは味がだいぶ違う……と、むかし教えてくれた爺《じい》さんが言っていた。なぜかは自分も知らない」  沸騰状態からいくぶん冷めたお湯で、リタは、粉末になったコーヒーを湿らせる。お湯をかけた場所からぶくぶくとクリーム色の泡が発生している。苦さと酸《す》っぱさと甘さがからまった鮮烈な香りがたちあがり、ガラス製テーブル周囲の空間いっぱいに広がった。 「まだブキミなかんじか?」 「いや。すごくいい香りだ」  円を描くように、リタはゆっくりと湯を注いだ。焦茶色に輝く液体が、スチール製のマグカップをてろてろと満たしていく。  ぶ厚い壁と耐爆ガラスを突き抜けて耳をつんざく音がしたのはそのときだった。  瞬間、タイル地の床が揺れた。  びしりという衝撃音。ガラスが砕《くだ》ける音には聞こえない。電話帳を地面に思いきり叩《たた》きつけた音に近い。耐爆ガラスに蜘蛛《くも》の巣状のヒビが入った。ガラス面を走る割れ目から青黒い液晶がにじみだす。ヒビの中心に砂色のスピア弾。ギタイと呼ばれる生物が発射する弾丸だ。  床すれすれでぼくらふたりの視線が交差する。  揺れを感じた瞬間、ぼくもリタも瞬時に伏せたのだった。  遅れて、基地全体にサイレンが響《ひび》きわたった。窓の外に三筋の煙が立ちのぼっていた。沖合いの海が鮮やかなグリーンに染まっている。 「て……敵襲《てきしゅう》? なんで……」  ぼくの声は震えている。たぶん体も。百五十九回分の記憶に敵襲なんてなかった。ギタイとの戦いは、統合|防疫《ぼうえき》軍がコトイウシ島に赴いて始まるものだった。  二弾、三弾と飛来。窓|枠《わく》全体が内側にたわむ。なんとか保《も》ちこたえた。ガラス面はヒビ割れだらけだ。分割された視界の中で、ぱっぱっと細かい閃光《せんこう》がきらめいている。  立ちあがったリタ・ヴラタスキは、手にしたソースパンをおもむろに携帯用ガスコンロに戻す。慣れた手つきで火を消した。 「このガラス、たいした強度じゃないか。大口を叩いただけのことはある」 「出撃……いや、まず軍曹《ぐんそう》に連絡をとって……そうだ! ジャケット!」 「まずは落ちつくがいい」 「でも! なんで」 「ギタイは戦いに勝つためにループするのだ。ループの記憶を持っているのはおまえだけではない」 「ひょっとして、ぼくが前回失敗したから……」 「この方法でなければ自分らを倒せないと判断したのであろう。それだけだ」 「だって、基地が……いったいどうやってここまで……」 「イリノイでは川をさかのぼって内陸まで来たことがあるぞ。もともと海棲《かいせい》生物なのだ。陸の上に生息している人類の警戒網《けいかいもう》を突破できてもおかしくない」 「それはそうだけど」 「困るのは戦略を立てる士官にまかせておくがいい。自分らにとっては、戦う場所がコトイウシ島からこの地に移っただけのことだ」  リタはぼくに手をさしだす。  腕を借りてぼくも立ちあがった。彼女の指のつけ根には機動ジャケット操作のマメができている。ソースパンを握っていたてのひらは、ぼくより余分にぬくもりを帯びている。リタの体温が伝わるにつれて、ぼくの中の恐怖と緊張がゆっくりと融解《ゆうかい》していく。 「ジャケット兵の仕事は目の前の敵を倒すことだ。違うか?」 「うん……そうだ」 「まずはUSの格納庫《ハンガ》へ行って自分がジャケットを装着する。ふたり分の武器を用意。おまえを援護しながらJPのハンガへ移動。ここまではいいな」 「了解だ」 「あとはサーバを探し、殺す。今度こそループを終わりにする。残った敵を掃討《そうとう》する」  体の震えが止まった。  鉄面女王は不屈の笑みを浮かべる。 「モーニング・コーヒーを飲む時間がなくなってしまったな」 「コ……コーヒーが冷える前に片をつけられるかな?」 「おまえは調子に乗る癖《くせ》がある」 「ごめん」 「たしかに温めなおしたコーヒーは味が落ちるがな。味が落ちるどころか、天然コーヒーというものは、三日も放っておくとカビが生えるのだ。アフリカでやって、ものすごく後悔した」 「それっておいしかった?」 「バカを言うな」 「飲んだことあるの? ない? だったらおいしいかもしれないじゃないか」 「カビの生えたコーヒーでも飲んでせいぜい腹を壊せばよかろう。行くぞ」  淹れたばかりの天然コーヒーを置き去りにして、リタはテーブルを離れる。  ぼくらがスカイラウンジを出ようとしたとき、ちいさな体をドアにぶつけるようにして部屋にとびこんできた人物がいた。黒髪で編《あ》んだみつあみが首の後ろでふるんふるんと揺れている。ネイティブ・アメリカンの血を引くシャスタ・レイルだった。 「敵襲です! 敵襲ですよ! 敵です敵です敵です!」  息を切らせながら言った。  彼女は白い羽根飾りを頭にくくりつけていた。映画の中でインディアンの酋長《しゅうちょう》がつけているアレだ。おまけに、顔には赤や白のラインがペイントされていたりする。  リタは一歩引いて、MITをトップの成績で卒業したとびきり優秀な頭脳の持ち主を見やった。 「違う……部族でも攻めてきたのか?」 「そうじゃないです! 敵ですよ敵。敵と言ったらギタイです!」 「戦闘のとき、おまえはそんな格好をしているのか?」 「あ、これ……そんなに変ですか」 「他人の風俗や宗教にとやかく言うつもりはないが、正直なところ二百年ばかり時代をまちがえていると思うぞ」 「ちちち違いますよ。嫌だって言うのに昨晩の騒ぎで無理矢理つけさせられたんです。リタがいないといつもこうなんですよ」  彼女もいろいろと苦労しているようだ。 「それでどうした?」 「そう、それです! リタの武器はハンガじゃなくて整備場のほうにありますから。それをお知らせしようと……」 「了解した。ごくろうだったな」 「は、はい。リタも気をつけてください」 「シャスタはこれからどうするのだ?」 「わたしは実戦では役に立ちませんから。無駄な抵抗はやめてどこかに隠れているつもりです。運がよければ生き残れるでしょう」 「ならば、自分が使っているこの部屋にいるといい。壁もガラスもスピア弾では貫通できないようだ。見た目より頑丈《がんじょう》にできている」 「いいんですか?」 「かまわない。ひとつ頼みがあるのでな」 「な、な、なんです?」 「自分か、この男が来るまでは、部屋に誰も入れてはいけない。これが頼みだ」  リタの言葉を聞いて、シャスタははじめて隣に立っている東洋人の男を認識したようだった。眼鏡《めがね》の奥の黒い瞳《ひとみ》をぱちくりさせてぼくのことを凝視《ぎょうし》している。このループでは、ぼくとシャスタ・レイルはまだ知り合いになっていないのだった。 「あ……ええと、どなたか知りませんが……」 「キリヤ・ケイジ。はじめまして」 「くどいようだが誰も、だ。大統領が来ても追いだすと約束してくれるか?」 「わかりました」 「頼りにしているぞ。それと!」 「なんですか?」 「お守り、ありがとう。大切にする」  このとき、クソったれなぼくの筋肉頭は、なぜリタがくどいほど念を押したのか考えることをしなかった。眼前に迫った最後の戦闘のことでいっぱいだったのだ。  ぼくとリタはハンガに急いだ。    4  比較的距離のあるスカイラウンジにいたリタとぼくが到着したときには、US特殊部隊はハンガを中心に強力な防衛陣を敷き終わっていた。  リタは二分でジャケットを装着。整備場まで走って一分四十五秒。第十七部隊のハンガまでの道のりで二体のギタイを屠《ほふ》って六分十五秒。スカイラウンジをとび出してから十二分三十秒が経過した。  前線基地は混乱していた。  あちこちで火の手があがり、道にはいくつもの車輛《しゃりょう》が横転している。バラック通路全体に薄い煙がたちこめ視界が利《き》かない。ギタイ相手には役に立ちそうもないタタタという軽機関銃の音がしたかと思えば、ズンと腹を震わせるロケットランチャの爆発音がしたりする。やっと出撃した攻撃ヘリはスピア弾の集中砲火を浴びて、ロータ部分に被弾、きりもみ状態になって墜落《ついらく》した。  北へ走るものもあれば南へ逃げる者もいる。どこへ行けば安全なのか皆よくわかっていない。奇襲《きしゅう》で司令系統が混乱しているのだ。みっつのヤバいで言うところの、ヤバすぎてどうにもならない状態というやつだった。  ギタイの死骸《しがい》はほとんど見あたらなかった。基地内に一万人以上いるはずのジャケット兵の姿もない。死体はいくつか見かけた。体の一部分が派手《はで》にふっとんだひと目でKIAだとわかるものばかりだった。  ハンガの三十メートル手前にも死体が一体転がっていた。  腹の中央をミンチにした状態で男はうつ伏せに倒れ、両の手にしっかりと雑誌を握りしめていた。うっすらと砂塵が積もった紙面ではトップレスのブロンド女優が微笑《ほほえ》んでいる。女優の豊満な胸にぼくは見おぼえがあった。ヨナバルと兵舎で他愛《たあい》のない話をしていたとき、隣のベッドで寝っころがっていた隊の男が見ていたものだ。  彼の名はニジョーという。 「最後に見たのがエロ本かよ……」 「ケイジ、わかってると思うが」 「わかってる。もう繰り返しはなしだ。誰が死んでも。わかってる」 「時間が惜《お》しい。行くぞ」 「ああ。行くよ。ちくしょう! これじゃ虐殺《ぎゃくさつ》じゃないか。ちくしょう!」  ハンガのドアは開いていた。バールかなにかの工具で鍵《かぎ》をこじあけた跡があった。  両手に持っていたバトルアクスの片方を地面に突きたて、腰の後ろにあるフックからリタは二十ミリ機銃を外す。 「五分時間をやる」 「三分で十分だ」  ぼくは建物の中に駆けこんだ。  ハンガは、奥行きの深い長方形の部屋である。両方の壁に沿って機動ジャケットを配置する。一小隊一部屋で、片方の壁には二十五人分のジャケットがずらりと並んでいる計算だ。  ハンガ内の空気は湿り気を帯び、どんよりと澱《よど》んでいた。十分な電力がきていないのか、壁に埋めこまれた電灯が不規則に明滅している。ほとんどの機動ジャケットが壁のフックに吊《つ》りさがったまま残っているようだ。そして、そこには、濃密な血の臭気《しゅうき》がただよっていた。  部屋の中央に大きな血溜《ちだま》りがあった。コンクリートに染《し》みこみ、どす黒く変色した血の池である。子供が行水《ぎょうずい》できそうな血溜まりから、絵筆で描いたような二本のラインが伸び、ぼくが入ってきたのとは反対方向のエントランスに向かっていた。  誰かがここで傷ついて他の人間が運んでいった跡だった。二本のラインがついているのは、運搬《うんぱん》する道具も人数も足りずに負傷者の脚《あし》を引きずっていったということである。ぶちまけられている血液が輸血なしでひとりの人間から漏《も》れ出したものなら、その人物はいまごろKIAだろう。  人はいなかった。ギタイもいない。動いている物体はぼくひとりだ。  何体分かのジャケットが乱雑な状態で床に転がっていた。人間型の生物が脱皮して殻《から》を残していったようにも見えた。  機動ジャケットは、背中にファスナーがある金属製の着ぐるみだと思えばいい。装着していないときは、人間が出入りする穴が背中に空《あ》いた状態で壁にぶらさげてある。  装着者の筋電流を読みとり力を何倍にも高める機動ジャケットは完全なオーダーメイドだ。他人のジャケットを借りて着たからといってどうにかなる代物《しろもの》ではない。単に動けないかあるいは骨折するか、とにかくロクなことにはならない。訓練校を出た兵士なら誰もが習った常識である。床に転がっているジャケットは、そういうことを知りながらも、他人のジャケットを装着してみずにはいられない切羽詰《せっぱつ》まった人間がいたということの証《あかし》だった。  これが、地獄を潜《くぐ》り抜けたUS特殊部隊とJPの部隊の差というやつなのかもしれなかった。  ぼくは嘆息《たんそく》した。  ジャケットの起動スイッチをオン。装着前にする三十七項目のチェックのうち二十六を省略。服を脱ぎにかかる。  そのとき、血のラインが向かっているエントランスに影が見えた。リタが守っていないほうだ。緊張を意味する信号がぼくの神経を走り抜ける。距離は二十メートル弱。ギタイの移動速度で一秒かからない間合いだ。スピア弾ならもっと早い。  素手でギタイを殺せるか。不可能。捌《さば》くことはできるか。可能。ギタイの速度は機動ジャケットを装着した人間よりも速いが、先読みは容易《たやす》い。躱《かわ》し、壁に突っこませ、貴重な数秒を稼《かせ》いでリタのところまで逃げる。これならできる。ぼくの右足が時計回り、左足が反時計回りに勝手に動きだした。  瞳に映った影を脳がようやく認識。  ヨナバルだった。下半身が血で汚れている。額《ひたい》で乾いた血の汚れが、下手くそな前衛ペインティングのようにも見えた。  緊張でこわばった表情の中にわずかな微笑を浮かべ、彼はぼくに走りよった。 「ケイジ、いいところにいた。どこにもいないから心配してたんだ」 「先輩も無事でなによりです」  回避行動のプログラムを停止。ぼくはインナースーツを手にとる。着ている服を脱ぎ散らかす。  ヨナバルは、緊張の中に疑念をまぎれこませた表情でぼくを見つめた。 「おまえさん、なにしてんだ?」 「見てのとおり、ジャケットを着てるんです」 「バカかおまえは。そんなことしてる場合じゃないだろっ!」 「ジャケット兵に他になにをしろというんですか」 「他にすることがあるだろう。戦術的|撤退《てったい》を選ぶとか、どっか敵のいないところに行くとか、逃げるとか!」 「USの部隊はもう展開をはじめています。ぼくらも早く防衛陣に加わらないと」 「あいつらは別格なんだよ。放っとけ! 早くしないとおれたちまで逃げ遅れるぞ」 「ぼくらが逃げて誰が戦うんですか」 「なに言ってんだ。正気か?」 「そのために訓練を受けてきたんです」 「どの道、この基地はもう終わりだ」 「リタとぼくがいるかぎり、そんなことにはなりませんよ」  インナースーツを装着した。この状態でジャケットに両足両腕を突っこめば、自動的に全身を覆《おお》ってくれる仕組みである。  ヨナバルがぼくの腕に手をかける。インナースーツに皺《しわ》がよった。ぼくは眉《まゆ》をひそめた。 「バカな考えはよせ。戦場で必要とされてる奴なんかどこにもいねえぞ。正義感だかなんだか知らねえけど、無駄死にしに行くことはないだろ。おれたちゃ普通の人間だ。特殊部隊の連中ともフェレウのおっさんとも違う」 「戦場がぼくを必要としてるなんて思ってませんよ」  ヨナバルの手を振り払った。 「ぼくが戦場を必要としているんです」 「おまえ……ケイジ……狂って、ないよな?」 「適応しただけですよ」  そして、煙たなびく戦場には、リタ・ヴラタスキがいる。  ぼくは機動ジャケットを装着した。視界が切り換わる。モーターが唸《うな》りをあげる。ヨナバルの顔がヘルメット越しの映像に切り換わる。四分の時間を消費した。 「どうなっても知らねえからな」  捨てゼリフにしては弱々しいヨナバルの声を無視して、ぼくはハンガを走り出た。  ぼくやリタの他にも、ジャケットを装着した兵が姿を現しはじめたようだった。|ヘッドアップディスプレイ《HUD》の画像に、味方を意味するアイコンが散らばっている。二、三人で一組になり、彼らは、兵舎や打ち捨てられた戦闘車輛の陰《かげ》から散発的な発砲を繰り返していた。  ギタイどもの奇襲は完璧《かんぺき》だった。兵に統率《とうそつ》がとれている動きは見られない。機動ジャケットを身につけているとはいえ、部隊として動いているのではない兵士は烏合《うごう》の衆《しゅう》と同じである。ギタイに立ち向かうには、本来、扇状《せんじょう》陣形に埋伏《まいふく》した装甲《そうこう》化歩兵部隊がありったけの銃弾を叩《たた》きこむ必要があるのだ。一対一や二対一で勝ち目はない。  味方を表すアイコンが増えたり消えたりしていた。数を減らさないアイコンはUS特殊部隊のものだけだ。ギタイを表すアイコンは減る様子がない。聞こえる通信は雑音が大半に怒鳴り声が少々、あとはファックファックファックファック! 指令はひとつも聞こえない。このままでは、ヨナバルの言葉が現実となるのもそう遠くない先のことかもしれない。 「どうする?」 「どうもしない。ジャケット兵はギタイを倒せばいい」 「それはそうだけど……」 「ついてこい。やりかたを教えてやる」  敵に突入した。  リタ・ヴラタスキは深紅《しんく》のジャケットを旗印《はたじるし》に使った。孤立している味方のもとへ向かい、有無《うむ》を言わせず連れだしてひとつの場所に集める。ぼくとリタは、そんな作業を繰り返す。  いつまで?  クソったれなギタイを殲滅《せんめつ》するまでだ。  戦場の女神はフラワーラインを縦横無尽《じゅうおうむじん》に飛びまわり、すべての将兵にあまねく福音《ふくいん》を与える。JPの部隊がリタと作戦行動をとるのははじめてだというのに、赤いジャケットを身にまとった彼女がそこにいるだけで、兵士たちは失いかけた自信と戦う意思をとり戻すのだった。いかなる戦場であろうとも彼女を中心に弾は飛ぶ。  ジャケットさえ着てしまえばリタ・ヴラタスキは無敵なのだ。オマケのキリヤ・ケイジも、無敵というほどではないがギタイに負けることはない。  ようこそ人類の敵よ。  おまえたちが地獄の穴に飛びこんできたことを教えてやろう。  蹴倒《けたお》し、殴りつけ、死体からエネルギーパックと弾薬を奪いとって、ぼくらはジルバを踊りつづけた。邪魔な建造物はバトルアクスで容赦《ようしゃ》なく粉砕《ふんさい》した。燃料倉庫をギタイの群れごと吹きとばした。アンテナ塔を基部からヘシ折って拠点|防御《ぼうぎょ》の壁に使った。戦場の牝犬《ビッチ》とその騎士《ナイト》は鋼鉄の死をばらまきつづけた。  炎上する装甲車のそばで、逃げ遅れた人間とギタイを発見。リタの雰囲気《ふんいき》を察知《さっち》。ぼくが斬《き》る役だ。攻撃する。屠《ほふ》った。舞い散る伝導流砂と男のあいだに体を割り込ませる。吸いこむと生身の人間は危険だ。  倒れた男のそばでリタは周囲に気を配っている。装甲車が吐きだす黒い煙で視界が悪い。六時の方向十メートルの距離に鉄塔が横倒しになっている。ドップラーレーダは敵の白点でいっぱいだ。じきに、この場所にもギタイが押し寄せる。  男は、横転した装甲車に脚をはさまれていた。  筋骨たくましい男だ。ぼくよりもずっと太い首からフィルム式カメラをぶら下げている。ぼくがクソったれなPTに狩りだされていたとき、リタのとなりでばしばし写真を撮っていたアメリカ人ジャーナリストだった。 「奇妙なところで出会うものだ」  リタは言った。かがみこんで男の脚をしげしげと見る。  黒い煤《すす》と油で汚れた口の端をジャーナリストは皮肉に歪《ゆが》めた。 「いいアングルだったんだよ、ヴラタスキ准尉《じゅんい》。もし撮れてたらピューリッツァ賞まちがいなしだった。そしたら爆発に巻きこまれちまった」 「運がいいのだか悪いのだか……」 「地獄で女神に会うんだからそう悪くもないさ」 「おまえの脚だが、装甲板が噛《か》みこんでいる。短時間で破壊するのは不可能だ」 「選択|肢《し》は?」 「ギタイに踏み潰《つぶ》されるまでここでシャッターを切りつづけるか、片足を切り落としてERに担《かつ》ぎこまれるか。ふたつにひとつだ」 「ちょっと! リタ!」 「考える時間の上限は一分だ。ギタイの群れが来る」  男は息を飲んだ。 「ひとつ聞いていいか?」 「なんだ」 「生き残ったら……おれにもちっとはマシな写真が撮れるようになると思うか?」 「約束しよう」  鉄面女王はバトルアクスを振りおろした。  戦闘開始から二時間あまりたってJPの部隊とUS特殊部隊が合流した。東の空にあった太陽が頭上を通り過ぎる頃には、なんとか戦線と呼べるものが形成されるようになった。ひどい戦いだが、全滅ではない。生きて、動いて、戦っている者もたくさんいた。  戦場と化した前線基地をぼくらは疾走《しっそう》する。    5  形成された戦線は、フラワーライン前線基地の中央を走り、海岸線に向かって突出した半円を描いていた。なだらかな弧《こ》を描く防衛陣の中央部分が敵の圧力がもっとも強いポイントで、US特殊部隊が堅守《けんしゅ》している。土嚢《どのう》を積みあげ、瓦礫《がれき》の山に身を隠し、屈強《くっきょう》な野郎どもは敵に向かって唾と罵声と銃弾を浴びせかけていた。  US特殊部隊のいる場所からはるか彼方《かなた》のコトイウシ島まで架空《かくう》の直線を引いたライン上に第三臨海演習場があった。ギタイが最初に上陸した地点である。土木機械に近い性質を持つギタイは、騙《だま》し討《う》ちや複雑な戦術をとらない。敵のウイークポイントは、もっとも敵が多くもっとも堅く守られた難所にある。  岩盤を掘り進んで地中で爆発するミサイルも、何千発もの小型爆弾に分裂する爆弾も、気化した燃料に引火して周囲を焼きつくす爆弾も、核分裂の力ですべてを粉微塵《こなみじん》にする爆弾も、人類がつくりだした芸術的とも言える大規模破壊兵器はすべてギタイ相手に役に立たない。時限爆弾を解体するように精密な手順で倒さなければ、奴等《やつら》は同じ時をやりなおすことができるのだから。  バトルアクスを抱えた赤いジャケットと埃《ほこり》色のジャケットは無防備な背中をぴたりと合わせていた。敵弾をかいくぐり、ギタイを斬《き》りとばし、鋼鉄のスバイクでコンクリートを穴だらけにしながら、敵の親玉目指して突き進む。  ループを発生させないためには、先にアンテナとバックアップを破壊して過去への通信波を送れないようにすることだ。  百五十九回めのぼくは作業を完璧《かんぺき》にやったはずだった。リタが失敗したとも思えない。それなのに、なぜかまたループに巻きこまれた。百六十回めのループでリタと親しくなれたのは不幸中の幸いだったけれど、引き換えにフラワーライン基地が受けた打撃は大きい。非戦闘員にも被害が及んだ。死傷者も多数出ている。  リタにはなにか考えがあるようだった。ぼくより多くループを経験している彼女にはわかることがあるのかもしれなかった。いっぱしの古参《こさん》兵になったつもりでいたけれど、彼女に比べればキリヤ・ケイジはまだまだヒヨッコだ。  第三演習場に到着した。  一方を鉄条網《てつじょうもう》、残る三本を金網《かなあみ》に囲まれていたなにもない空間だ。いまは、鉄条網が根こそぎ倒され、基地中央に向かう部分の金網が崩壊《ほうかい》している。ギタイの重さに耐えかねたコンクリートはヒビ割れ、うねり、めくれあがっている。傾きはじめた陽《ひ》のつくる影が地面に複雑な模様をつくりだしていた。海から吹く風の強さは昨日と変わってないけれど、ジャケットのフィルタ越しに嗅《か》いだ空気に磯《いそ》の匂《にお》いは残っていなかった。  そいつはすぐに見つかった。リタも同時に見つけた。あるいはなんらかの電波を出しているのか、ぼくやリタにはギタイ・サーバがひと目でわかった。 「やりかたは憶《おぼ》えているな?」 「まずぼくがサーバのアンテナを破壊する。次に、リタがバックアップ用のギタイを見つけて倒す。サーバの息の根を止める。最後の一体まで殲滅《せんめつ》する」 「支援部隊との連絡がとれない。空爆の援護はなしだ」 「ぼくにとってはいつものことだよ」 「ならば行くぞ」  一万平方メートルのフィールドにぎっしりと詰まったギタイの群れを、ぼくらはバトルアクスで撫《な》で斬りにする。  進む。  たどり着いた。  合計四本の短い手足と一本の尻尾《しっぽ》。ギタイの姿は、いつ見てもカエルの溺死体《できしたい》が立ちあがった格好《かっこう》である。見てくれはサーバもクライアントも同じだ。雰囲気《ふんいき》の違いはぼくやリタにしかわからない。  こいつらは土壌《どじょう》を食らう。こいつらの体内をくぐり抜け排泄《はいせつ》された土壌は、地球上の生物にとって有害なものに変化している。生態系を破壊された土地は砂漠化する。海は、濁《にご》った緑色になる。こいつらをつくりだした異星の知性体は、星々の海を超える力を持ち、時間を超えて情報を送る能力を備えている。木や花や虫や動物やついでにうじゃうじゃといる人類が棲《す》む地球環境をつくり変え、自分たちに都合のよいものにしようとしている。  ぼくらは、今度こそまちがいなくギタイ・サーバを倒すのだ。そうしなければ、このクソったれな戦闘はいつまでたっても終わりにならない。  慣性を利用してバトルアクスをふるう。ぼくはアンテナ部分を破壊する。 「やったぞ!」  叫んだ。  背後で殺気を感じたのはそのときだ。  考えるまでもなく体が反応した。戦場におけるぼくは、肉体操作のすべてをキリヤ・ケイジの意識から解き放ち、冷酷で正確で緻密《ちみつ》なOSにまかせている。  足元のコンクリートが真っ二つに割れた。灰色の粉が爆発的に飛び散る。右|脚《あし》が勝手にロックンロール。攻撃者は視界の外だ。重いバトルアクスを振りまわしている余裕はない。  脚を動かす。手を動かす。重心を移動する。回避行動からだいぶ遅れて神経回路を戦慄《せんりつ》が走り抜けた。背中の装甲《そうこう》板が神経に繋《つな》がっていたら、いまごろばたばたと音をたてて立ちあがっているところだ。  バトルアクスの石突き部分をぼくは力いっぱい突き出した。使いかたさえまちがえなければ、こいつだってパイルドライバと同等の威力《いりょく》がある。三百七十キログラムの握力で直角に打ちこんだ正確|無比《むひ》な攻撃は、戦車の前面装甲以外のすべての物質を貫通するのだ。  はじかれた。  ファック!  視界の外から影がふっとんでくる。避《よ》けるヒマがない。  衝撃に備えて息を肺に溜《た》める。来る。衝撃だ。体が浮く。転がる。地面空地面空地面空地面、一挙動で立ちあがった。ぼくはバトルアクスを構える。  片脚をあげた姿勢で、ガンメタリックレッドのジャケット兵が立っていた。  蹴《け》ったのはリタ・ヴラタスキだ。気づかぬうちにぼくはギタイの攻撃を受けようとしていたのか、彼女の邪魔になっていたのか。とにかくリタがぼくを蹴った。それはまちがいない。 「いったいなにが……」  赤いジャケットは腰を落とす。  突っこんできた。  バトルアクスの刃《やいば》が光のラインと化した。  敵は本気だ。戦闘の流れにぼくは身をまかせる。百五十九回の実戦をくぐり抜けた精密機械がなめらかに動作を開始。横殴りの第一撃を紙一重《かみひとえ》で躱《かわ》す。振りおろしの第二撃をバトルアクスの柄《え》で捌《さば》く。クソったれ。こんなところにギタイがいやがる。邪魔だ。蹴りとばした。第三撃がくる前に跳躍《ちょうやく》、距離をとる。息をついた。  そうしてやっと、ぼくは、自分がリタを敵として認識していたことに驚愕《きょうがく》した。 「いったいなんだってんだ!」  リタ・ヴラタスキは、巨大なバトルアクスを片手に下げ、ゆっくりとぼくに歩み寄る。  立ち止まった。  雑音まじりの声が聞こえた。戦場にはそぐわない、甲高《かんだか》い女の声だった。 「……そういうことだ」 「なんだよ。そういうことってなんだよ!」 「人間は、ギタイの通信を夢という形で受けとる。受信アンテナとして使われるのは脳だ。何度も何度もループを繰り返すうち、やがて人間の脳もギタイのアンテナと同様の性質を帯びるようになる。そして、変質の過程が偏頭痛《へんずつう》を起こす。おまえにもおぼえがあるだろう?」 「だからなんだって——」 「前回の戦闘でバックアップを破壊してもループが発生したのはそのせいだ。キリヤ・ケイジというバックアップ・アンテナがある限り、リタ・ヴラタスキはループを脱出することができない」 「リタ……なにを言って……」 「逆も同じだ。リタ・ヴラタスキというバックアップ・アンテナがある限りおまえはループを脱出できない。ループを脱出できるのはどちらかひとりだ」  なにがなんだかよくわからなかった。  クソったれなループに巻きこまれた初年兵は、戦場を駆ける女神の姿を見て、彼女みたいに強くなりたいと願った。幾度《いくど》となく屍《しかばね》になりながらも戦女神の導きによって復活し、ついには彼女と肩を並べることができるようになった。一緒に戦うことができた。笑いあった。ランチを食べて軽口を叩《たた》いた。それなのに、クソったれなこの世界は、血の滲《にじ》む努力をした初年兵と女神の仲を引き裂くのだという。  ぼくを強靭《きょうじん》な戦士にした百六十回の繰り返しが、ぼくらの命を死に追いやるのだ。  彼女は言った。 「この戦いに人類が勝つためには、ギタイのループを断つことができる人間が必要だ」 「ちょっと待って——」 「その人物がリタ・ヴラタスキかキリヤ・ケイジか、いまから決める」  リタが襲いかかってきた。  ぼくは機銃を投げ捨てる。戦場の牝犬《ビッチ》相手に、狙《ねら》いをつけてトリガを絞《しぼ》るなんて悠長《ゆうちょう》なことをしている余裕はない。バトルアクスを両手に握りしめる。  ぼくらは、戦いながら基地を駆け抜けた。  第三臨海演習場から第一臨海演習場へ。PTで少佐が休んでいた幕舎《テント》の残骸《ざんがい》を踏みにじって走る。焼け落ちた第十七中隊兵舎の脇《わき》を通り抜け、ハンガ前でバトルアクスを打ち合わせる。刃をすべらす。かがんで避ける。また走る。  戦闘中のジャケット兵たちが、その瞬間だけ手を止めて、通りすぎるぼくらを眺《なが》めている。ヘルメットの中の顔を見ることはできないが驚いた顔をしているのだろう。それはそうだ。ぼくだって信じられない。自分の行動に不信感を抱きながらも肉体は反応し、最適化された動きで攻撃を躱す。  US特殊部隊の防衛陣にさしかかったところで、HUDに緑色の光が点灯した。リタへの通信だった。彼女とリンクしているぼくにも自動的に聞こえた。 「チーフ・ブリーダよりカラミティー・ドッグへ」  男の声だ。リタの移動速度がいくぶん減少した。この隙《すき》にぼくは距離をとる。 「拠点付近の制圧に成功した。とりこんでるようだが、手助けが必要か?」 「手出し無用だ」  リタは短く答える。 「他に要望は?」 「JPの部隊にも手を出させるな。邪魔すれば命の保証はしない」 「チーフ・ブリーダ、了解。健闘を祈る」  通信が切れた。ぼくは叫び声をあげる。 「おい! ちょっと! それだけかよ! おい!」  通信は答えない。  赤いジャケットが迫る。  しゃべる余裕が消えた。ぼくは回避に専念する。  リタが本気なのかぼくを試しているのかはわからなかった。  戦闘中のぼくが無駄なことは一切思考しない精密機械であるように、いまのリタも複雑なことを考える余裕はないはずである。キリング・マシーンと化した戦場の牝犬が繰り出す攻撃はまぎれもなく本物だった。  右手にUSとJPの共用ゲートが見えた。バトルアクスをちょろまかす目的でUSの管轄《かんかつ》区域へ忍びこんだとき通った道だ。屈強《くっきょう》な歩哨《ほしょう》が立っていた場所に、いまは特殊部隊が防衛陣を敷いている。  周囲を気にせずリタはバトルアクスを振り回す。  味方を巻きこむわけにはいかない。防衛陣から離れる方向に行かなくては。  百メートルほど先に第二食堂が見えた。スピア弾の攻撃を受け外壁がぼろぼろになっていたが、奇跡的に崩《くず》れず残っている。防衛陣からの距離も十分だ。彼我《ひが》の距離を一息で走り、裏手から内部へ侵入する。  食堂の中は薄暗かった。テーブルが横倒しにされ、ぼくが入ったのとは逆の入口にバリケードとして積みあげてあった。コンクリート敷きの床には、テーブルを倒したときに落ちたらしいソースやしようゆの容器が乱雑に散らばっている。生きている人影も死んでいる人影もなかった。  ここは、リタの後ろ姿を見て幾度となく食事をしたところだった。第四中隊のゴリラモドキと殴り合いのケンカをしたところだった。梅干しを腹に詰めこむチキンレースをしたところだった。そんな場所で、ぼくらは、バトルアクスを手に命のやりとりをしようとしているのだった。  西側の壁にあいた穴からオレンジ色の光が射しこんでいた。ディスプレイ脇の時計を確認してぼくはすこしだけ驚く。戦闘開始から八時間が経過。もはや夕方と言っていい時間だ。どうりで体が重いはずである。兵士としてはもの足りないぼくの肉体はバッテリー切れで機能停止寸前なのだ。いままで経験したことのない、長いながい戦闘に突入しようとしていた。  赤いジャケットがすべりこんで来た。  横殴りの一撃をぼくは受けとめた。ジャケットの骨格がきしむ。正面から受けたらだめだ。アクチュエータが生みだす力は機動ジャケットそのものを破壊できる。  ここでぼくは、リタの戦闘の才能にもう一度|畏《おそ》れを抱くことになる。戦闘の天才リタ・ヴラタスキは、ぼくの回避パターンを先読みするようになったのだ。  戦闘中の動きは無意識に近い。それゆえ、読まれてしまえば対処が難しいとも言える。ぼくが進む半歩先にリタは回りこみ、重い一撃を浴びせてくる。  くらった。  一歩内側に踏みこみバトルアクスの芯《しん》を外した自分の反射神経を誉《ほ》めてやりたい。左肩の装甲が跳《は》ねとぶ。ディスプレイに真っ赤なアラートが表示される。  蹴りが来た。  避けられない。  ぼくは吹きとんだ。  装甲に削《けず》られたコンクリートの床が火花を散らす。一回転してカウンタにぶちあたる。頭上から箸《はし》の雨が降った。  リタは次の行動に移っている。ぼくが回復に使える時間はすくない。頭首胸腹右肩右腕右脚左腕左脚、チェック。問題ない。まだ戦える。  バトルアクスを手放した。三百七十キロの握力を利用し、構造物の角に指をめりこませる。  逆あがりの要領でカウンタを越えた。  リタの一撃がカウンタを粉砕《ふんさい》。建材の破片が飛び散る。  ぼくは調理場に降り立った。  ステンレス製のどでかいシンクと大出力のガスバーナ。子豚《こぶた》がすっぽり入りそうな鍋《なべ》やフライパンが壁際に並び、プラスチック製の食器がばかみたいな高さまで積みあげてある。調理台の上には、食べられることなく冷えてしまった朝食のトレイが寂しげに並んでいる。  食材が床に落ちるのを気にせずぼくは後退。迫るリタに鍋を投げつける。命中した。通用しない。  リタはバトルアクスを振り回す。調理台の上から半分をふっとばし、鉄骨が入ったコンクリートの柱を粉砕する。  後退——背後は壁だ。這《は》いつくばった。横薙《よこな》ぎの一撃が、ぼくの代わりに、壁に貼《は》られたマッチョ男の顔を両断した。足払い。リタはぴょんと跳《と》んで避ける。回転の勢いを殺さずそのまま転がりぼくは崩れたカウンタまで戻る。そこには、バトルアクスが落ちていた。  一度手放した武器を拾うというのは、応戦の意思を示すことに他ならない。使わぬ武器は拾わないものだ。だが、いつまでも逃げているわけにもいかなかった。本気のリタを相手にして、逃げきることなどできはしない。相次ぐ攻撃を受けて機動ジャケットの出力はぎりぎりまで低下している。覚悟を決めるときが来ていた。  ぼくには、ひとつだけ、忘れてはならないことがあった。もうずいぶんと昔のこと。ループを抜けだすために、ただひとつだけ心に決めたことがある。  グローブに包まれた左手の甲《こう》に、油性ペンで書いてある数字は「160[#「160」は縦中横]」。この数字が「5」だったとき、ぼくは決意したはずだ。この世界で最高の戦闘技術を次の日に持っていくと決めた。誰にも言っていない秘密だ。リタにも、ヨナバルにも、毎回訓練につき合わせたフェレウにも——ぼくだけが知っていることだった。  ずっとそばにいた友人だから、死は怖くなかった。リタに殺されるのはべつに構わないと思う。もともと彼女がいなければなかった命である。助けてくれた女神の命を啜《すす》り生きながらえるくらいなら、ここでくたばるのも悪くない。  だけれど。  ここで手を抜けば、クレータだらけの島で内臓を飛び散らし、血を吐いて、もげた腕を拾って走ったクソったれなループが消えてしまう。銃口から立ちのぼる硝煙《しょうえん》のように、爆撃跡の黒煙のように、そいつは、すうっと消えてなくなる。ぼくの記憶の中にしかない百五十九回の戦場は、なんの意味もないことになってしまうのだった。  全力を尽《つ》くして敗北するのならいい。でも、手を抜いて死ぬのはだめだ。  いま、ぼくは、たぶん、ぜったい、リタと同じことを考えている。彼女の気持ちがぼくには理解できる。クソったれなこの世界でたったふたりだけループを経験したぼくらにはわかる。キリヤ・ケイジがコトイウシ島を這いずりまわったのと同じように、かつてリタ・ヴラタスキもアメリカ大陸のどこかの戦場を必死で駆け抜けたのだ。  ぼくが生き残ればかけがえのない彼女が死ぬ。彼女が生き残ればぼくが死ぬ。いくら頭を悩ませても納得のいく結論が出る問題ではない。ふたりのどちらかが死ななければならない選択を、だから彼女は、言葉ではなくおのれの戦闘技術に託したのだ。  ならば——  鋼鉄の刃に乗せた彼女の問いかけを、ぼくは、本気で受けとめねばならない。  拾った。  食堂中央まで走り、振り向いた。  奇《く》しくもそこは、リタと梅干しのチキンレースをしたちょうどその場所だった。たった一日前のことなのにひどくなつかしい気がする。あの戦いもリタの勝ちだった。勝負と名のつくものにリタ・ヴラタスキは天賦《てんぶ》の才を持っている。  立ち止まったぼくを見定めるように、一歩一歩、深紅《しんく》のジャケット兵は近づいてくる。  バトルアクスの距離で停止。  構えた。  食堂の外ではギタイと人類の戦闘がつづいていた。ぼくたちふたり以外は誰も音を立てない食堂の中に、けたたましい戦闘の音が侵入してくる。  爆撃音のドラムが聞こえた。砲弾が空気を切り裂く音はフルートだった。機関砲はパーカッションを奏《かな》で、そしてぼくらは、タングステンカーバイドのシンバルを打ち鳴らす。  ふたつのバトルアクスが噛《か》み合った。崩れかけた食堂に野次《やじ》をとばして場を盛りあげてくれる野郎どもはいない。積みあがったテーブルと転がっているイスが観客だ。そのひとつひとつが生命の終わりをもたらす音楽に合わせて、深紅のジャケットと埃色のジャケットは、装甲板のすぐ外に死が迫った舞踏を踊る。  リタの癖《くせ》に従ってふたりは螺旋《らせん》を描いて移動。コンクリート敷きの床にスバイクの螺旋模様が描かれていく。人類の叡知《えいち》をこめてつくりあげた装甲服に身を包み、戦闘に最適化された華麗《かれい》なステップを踏みながら、ぼくらは、千年も昔の蛮族が考えだした武骨な武器を打ち合わせる。  バトルアクスの刃はぼろぼろだ。機動ジャケットも傷だらけになった。バッテリーの残量は限りなくゼロに近く、ぼくの肉体は精神力だけで動いている。  ひときわ大きな爆発音。  ふたりは同時に跳びずさった。  次の攻撃は、避けようのない致命的な一撃となる。それがわかった。  どうすればいいかは考えなかった。考えながら体を動かすのは訓練でやることだ。百五十九回の実戦で刻んだ経験がぼくの体を自動的に動かす。  リタが振りかぶった。  下からの薙《な》ぎ払いで応《こた》える。  巨大な二枚の刃が交差し装甲を斬り裂いた。  彼女とぼくの違いはただひとつだった。  リタは自分ひとりでギタイとの戦いかたを編みだした。  ぼくは彼女の戦う姿を見て成長した。  どのタイミングで武器を振りまわし、次の一歩をいつ踏みだすのか。もれなくキリヤ・ケイジのOSに刷りこまれている。ぼくは、リタが次になにをするか知っているのだった。  だから、リタの一撃はぼくの体をかすめただけで、ぼくの一撃はリタの機動ジャケットを粉砕した。  深紅のジャケットに大穴をあけたリタ・ヴラタスキが立っていた。 「リタ!」  彼女のバトルアクスががくがくと震えていた。筋肉の痙攣《けいれん》をジャケットが操作信号として拾っているのだった。タングステンカーバイドの柄が装甲に触れてガチャガチャと耳障りな音をたてた。ささくれ立った装甲の裂け目に血ともオイルとも判断のつかないぬるぬるとした液体が滲みだしていた。その光景をどこかで見たような気がして、ぼくの恐怖は一層ひどくなった。  深紅のジャケットは腕を伸ばし、肩のジャックを探りあてた。接触通信だ。女の声がクリアに聞こえた。 「……おまえの勝ちだ。キリヤ・ケイジ。おまえは……強い」  深紅のジャケットがぼくにもたれかかる。リタの声は、かすれ、ひどく苦しそうに聞こえる。 「リタ! なにを言って……」 「ずっと前からわかっていたことだ。ギタイの電波が感じとれるようになったときから……戦いにはいつか終わりが来る」 「だって……え?」 「ループから抜けるのはおまえに決まった」  リタは咳《せき》こんだ。ごぼごぼというノイズがスピーカーから聞こえた。  ぼくは理解した。  昨日会ったときから、リタはもう死ぬ決意をしていたのだった。そんな彼女の気持ちも知らず、なにかのフラグが立ったなどとぼくは勘違《かんちが》いしていた。リタを救うために使えるはずだったたった一日の時間を、ぼくは無駄に消費してしまった。 「ごめんよ……ぼくはなにも知らないで……」 「あやまる必要はない。おまえは勝った」 「勝つだなんて……このままずっと繰り返せばいいじゃないか。時は前に進まないけれど、ぼくときみはずっと一緒にいられる。いつまでだって。ひとりの人間が過ごせる一生分よりも長い時間一緒にいることだって可能だ。毎日戦争があってもぼくらならだいじょうぶだよ。何千何万のギタイが襲ってきたってかまやしない。リタ・ヴラタスキとキリヤ・ケイジがいるんだ。きっと切り抜けられる」 「同じ一日をか? 毎朝おまえは、見知らぬリタ・ヴラタスキと会うのだぞ」 「それでもかまわないよ」  深紅のジャケットは首を振った。 「選択権はない。おまえの脳が自分と同じようになる前に、このループは断ち切らねばならない。とっととクソったれなループを終わらせてくるがいい」 「きみが犠牲《ぎせい》になるなんてだめだ」 「自分が知っているキリヤ・ケイジは、その場の感情で人類を危機に陥《おとしい》れたりはしない」 「リタ……」 「あまり時間がない。言いたいことがあるなら早く言え」  深紅のジャケットから力が抜けていく。ぼくは言った。 「ぼくはきみが好きだ。だから……だから、きみが死ぬまでそばにいよう」 「ありがたい。ひとりは心細いからな」  ヘルメットに隠れて顔は見えない。  涙が見えなくてよかった。もし見えていたら、彼女との約束を破って致命的な一日をぼくは繰り返していただろうから。  赤い光がリタを覆《おお》っていた。ガンメタリックレッドに彩《いろど》られた機動ジャケットが、西から射す赤い陽光の中で、ひときわ真っ赤に輝いていた。 「ずいぶんとながい戦いだった……もう、陽《ひ》が沈む時刻なのだな」 「夕焼けだ。きれいな色だよ」 「感傷的なやつだ」  リタは笑ったようだ。声でわかった。 「赤い空なんか大嫌いだ」  戦場の女神が吐いた最期《さいご》の言葉だ。    6  空がまぶしかった。  リタ・ヴラタスキが死に、ギタイ・サーバをぶち殺して、残った敵をすべて掃討《そうとう》し終わったあと、ぼくは営倉《えいそう》に叩《たた》きこまれた。服務規定違反ということらしかった。  上官の命令を無視したぼくの無謀《むぼう》な行動が友軍を危険に晒《さら》したそうだ。上官もクソも命令を出せる士官などまわりにはいなかったけれど、そういうことならそれもいい。戦場の女神リタ・ヴラタスキを失った責任を誰がとるのかで司令部は揉《も》めていたのだった。  三日間営倉に閉じこめられ、軍法会議が行われた。結果は無罪だ。それどころか勲章《くんしょう》をくれるらしい。  貴君はすごい働きをしたものだと、ヒゲの少将は苦虫《にがむし》を百匹くらい同時に噛《か》みつぶした顔で言った。消えてしまったあの世界で、ぼくらの中隊にPTを押しつけたあの少将だった。勲章などという役に立たないものはケツの穴に放りこんでヒゲの栄養分にでもしとけという言葉が喉《のど》まで出かかったが、ぼくはやめておいた。リタの死はぼくの責任であり、この少将には関係のないことだった。  勲章の名はヴァルキリー卓礫《たくれき》撃破章という。一戦闘で百体の敵を撃破した者に贈られる栄誉で、ただひとりの特別なジャケット兵のためにつくられた勲章である。これ以上の勲章は、戦場で死ななければ手にいれることはできない。リタがそうだったように。  実際、ぼくの撃破数はものすごかった。今回だけを見ればリタ・ヴラタスキを圧倒している。ギタイ・サーバを倒したあとのことはよくおぼえていないのだが、ぼくは、フラワーラインに攻めあがったギタイの半分近くをひとりであの世に送りこんだらしかった。  前線基地の復興は急ピッチで進んでいた。建造物の半分が焼失しているのだ。あとを片付けるだけでもひと苦労だった。第十七中隊の兵舎も消失し、ラストを読む前にミステリーは灰になってしまった。どこに行けばいいのか、ぼくにはよくわからなかった。  忙がしそうに人々が行き交う前線基地の中を、ぼくはぼんやりと歩いていた。 「クンショーもらった英雄サマは違うよな。仲間を足蹴《あしげ》にしといて素通りとはよ」  声がした。聞きおぼえのある声だ。  振り向いたとたん、視界一杯に握りしめた拳《こぶし》が迫っていた。  左足が勝手に動きはじめているのを知覚。考えている時間はなかった。ぼくにできるのは、反撃のスイッチを入れるか入れないか、それだけだった。脳の奥底のどこかにある反撃のスイッチを入れれば、百六十回の繰り返しで築きあげた反射行動が、組み立て工場のロボットのように肉体を動作させる。  ずらした左足に重心を移し、迫ってきた拳を肩ですりあげ、右足の踏みこみに合わせて相手の肘《ひじ》を極《き》めながらこちらの肘を脇《わき》に叩きこむ。ここまで一挙動だ。頭の中でシミュレートしてみて、誰だかわからない相手の肋骨《ろっこつ》を粉々にしてしまうことがわかり、ぼくはおとなしく殴られることにした。すくなくとも、相手のパンチはぼくに青|痣《あざ》をつくるだけである。  拳が命中した。  痛い。  慣性に従ってぼくの体はわずかに後退し、尻《しり》もちをつく。今度はうまく殴られた。軍隊をやめても殴られ屋として生きていける。 「天才だかなんだか知らねえがいい気になってんじゃねえぞコラ」 「よしなさいよ」  声の主を見上げる。  ヨナバルだった。  なおも殴るような素振りをみせるヨナバルを止めているのは、ジャケット兵用のシャツを着ている女性だ。彼女は首から三角巾《さんかくきん》をぶらさげ、左手を固定していた。埃《ほこり》色のシャツに純白の三角巾が痛々しい。おそらくこの人がヨナバルの彼女というやつなのだ。ヨナバルとその彼女が戦闘を生き残ったことがぼくはうれしかった。  彼女の目には、いままでの人生で遭遇《そうぐう》したことがない光が宿っていた。同じ檻《おり》に入れられた巨大なヒグマを見るような、鎖《くさり》の切れたライオンを見るような、そんな瞳《ひとみ》だ。人間を見るときの視線ではなかった。 「ふんぞり返って歩きやがって。むなくそ悪《わ》りい」 「よしなさいってば」 「行くぞ」  ぼくが起きあがるのを待たずにヨナバルは歩いていった。  ぼくはゆっくりと立ちあがり、埃を払った。  顎《あご》の痛みはたいしたことがない。胸の中心にリタが空けた空洞《くうどう》に比べればへでもなかった。 「やっちまったなあ」  フェレウの声がした。  彼は、眉間《みけん》に増加|装甲《そうこう》をつけたいつもの顔で立っていた。 「見ていたんですか」 「すまねえな。止める間もなかったもんでよ」 「いいんです」 「許してやれや。知り合いが死んじまったんで、ちいとばっかし気が立ってやがるんだよ」 「ニジョーの死体は見ました」 「ウチの小隊は十人死んだ。基地全体だと三千をくだらねえって話だ。正確な数字はまだ出てねえ。第二食堂のなんつったか、きれいなねーちゃんがいただろう。アレも死んだってよ」 「……そうですか」 「おめえの所為《せい》ってわけじゃねえんだが、やりきれねえのはしゃあねえやな」 「……」 「それはそうと、おめえ、あいつの連れも蹴《け》っとばしたみてえだな」 「も、ですか?」 「も、だ」  ということは、ぼくはフェレウのことも戦場で足蹴《あしげ》にしたらしい。まいったことにかけらも憶《おぼ》えていない。どうやら、戦場のキリヤ・ケイジは相当に乱暴な奴《やつ》らしかった。  ヨナバルの彼女の負傷も、もしかしたらぼくが蹴ったことによるものなのかもしれない。機動ジャケットが繰りだす蹴りは強烈だ。鍛《きた》えていなければ、衝撃だけで内臓が壊れてしまうこともある。ヨナバルの怒りは、彼女を失う恐怖から来たものに違いなかった。  その恐怖を大切にするといい、とぼくは思う。恐怖とともに戦いを生き残ってほしい。彼はもうぼくのことを友達だと思っていないかもしれないけれど、それでも、ぼくはヨナバルを友達だと考えているから……。 「すみませんでした」 「気にするな」  フェレウは怒っていないようだった。それどころか、感謝しているようにも見える。 「おめえさん、ジャケット戦の動きをどこで身につけたんだ?」 「軍曹《ぐんそう》のおかげです」 「冗談言っちゃいけねえや。JPのどこ探したって、おめえさんに訓練をつけられる教官なんていやしねえ。フォーメーション訓練じゃ三味線《しゃみせん》弾いてやがったんだな。食えねえ野郎だ」  バルトロメ・フェレウ軍曹は多くの戦場を駆け抜けた歴戦の兵士だ。彼は本当の強者を知っている。ぼくの蹴りがなければ自分の命が危なかったことを直感で理解している。目の前の若造《わかぞう》が、自分がけして到達できぬ高みに登りつめたことを、極限の戦場では強さだけが人間の序列を決めるものなのだということを知っている。  ぼくの技術の基礎が彼によって叩き込まれたのは本当のことだったが、うまく説明できそうもないのでやめておいた。 「そういや、USのちっこいのがおめえのことを探していたぞ。女だ」  ちっこいのというとシャスタ・レイルのことだろうか。しかし、この[#「この」に傍点]シャスタとぼくはスカイラウンジで顔を合わせたきりだ。ほとんど初対面のはずである。バトルアクスを手に入れるためにシャスタと話をしていたのは、いまはもう消えてしまったループの話だった。 「中隊の兵舎はどこになったんですか? ハンガも。ジャケットを確認したいんですけど……」 「営倉出ていきなりジャケットの心配かよ。つくづくホンモノだな」 「そんなことないです」 「おめえさんのジャケットはUSの部隊が持ってっちまった。なんだ。そのちっこいのも一緒だったな」 「ぼくのジャケットなんてどうするんでしょう」 「上のほうがいろいろとやってやがるみてえでよ。ひょっとしたらおめえさんはUSの部隊へ異動になるかもしれねえぞ」 「本当ですか?」 「鉄面女王の代わりってやつだな。ま、おめえさんならだいじょうぶだ」  歴戦の軍曹はそう言って肩を叩いた。ぼくはフェレウと別れた。  持っていかれたジャケットとシャスタを探して、ぼくは、USの部隊が管理する区画へと向かった。道もバラックもみな焼け焦《こ》げ、どこからがJPでどこからがUSだかさっぱりわからない状態だった。筋肉の鎧《よろい》をつけた歩哨《ほしょう》も立っていなかった。  整備場で自分のジャケットを見つけた。シャスタも一緒だった。  誰がつけたのか、ぼくのジャケットの装甲部分に金属でひっかいたような跡がある。  Killer Cage と読めた。  どうやらぼくの呼び名らしい。早くも称号《しょうごう》をいただいたというわけだ。リタ・ヴラタスキが戦場の牝犬《ビッチ》と呼ばれていたように。仲間を殺して勲章をかっさらったブタのケツにはぴったりの名だった。わざわざ教えてくれるなんてずいぶん親切な奴がいたものだ。世の中は捨てたもんじゃない。  シャスタはバツの悪そうな顔で立っていた。 「しっかり見張っていたつもりなんですけれど、ちょっと目を離した隙《すき》に……ごめんなさい」  ジャケットを見張ることに慣れているような口振りだった。あるいは、リタのジャケットもそうだったのか。 「いいんだ。気にしてない」 「ぼくを探していたのはきみでいいんだよね」 「スカイラウンジのキーを渡そうと思ってたんです」 「キー?」 「リタに頼まれましたから。彼女かあなたしか入れちゃいけないって。三日間誰も入れないのはものすごく大変だったんですけど……いろいろずるをしてなんとかなりました」  シャスタが差しだしたカードキーをぼくは受けとった。 「あの、入口にいろいろありますけど気にしなくてだいじょうぶですから」 「ありがとう」 「いいんです。わたしはこんなことしかできませんから」 「ひとつ聞いていいかな」 「なんですか?」 「リタは……彼女はなぜ、機体を赤に塗っていたんだろう。好きな色じゃないはずなのに。理由を知らないかな」 「目立ちたかったって言ってました。戦場で目立っていいことがあるのかわかりませんけど。格好《かっこう》の的《まと》ですよね……」 「そうか。目立つってのは、悪くない案だ」 「じゃあ、あなたのジャケットにはツノでもつけておきましょうか?」  ぼくの顔はゆがんだらしい。ちいさな体をシャスタはおおげさにちぢこまらせた。 「じょ、冗談です。怒らないでください」 「いいんだ。怖い顔をしてすまなかった。これ、ありがとう。スカイラウンジに行ってみるよ」 「あの……」 「なにか?」 「こんなことを聞くのは失礼かもしれませんが……わたしも質問していいでしょうか」 「べつにかまわないよ」 「リタとは古い知り合いだったんですか?」  ぼくの顔が苦笑を浮かべた。シャスタがまた身構える。 「すみません。変なこと聞いてすみません」 「あやまらなくていいよ。たしかに疑問だろうから。でも——」 「でも?」 「昨日がはじめてだ」 「そ、そうですよね。この基地は来たばっかりなのに。わたしったらなに言ってるんだろ」  シャスタと別れたあと、スカイラウンジに向かったぼくは、主《あるじ》のいない部屋のドアをそっと開いた。  入口にはBIOHAZARDの黄色いテープが張りめぐらされていた。足元に消火器が転がり、なんだかわからない砂粒と液体の乾いた跡が床にこびりついていた。シャスタの「ずる」だった。基地中が伝導流砂に汚染されて浄化にてこずっているときに、兵站《へいたん》に関係ない場所の浄化をしている余裕はない。頭のいい彼女らしい機転だった。  部屋に入った。  空気がよどんでいた。リタ・ヴラタスキのにおいは残っていなかった。出撃したときとまったく同じ場所にあるぺちゃんこのシーバッグと、コーヒーミルと、携帯用のバーナーだけが、短いあいだ部屋の中に彼女が存在したことを感じさせた。  この部屋にあるのは、ほんのすこしのあいだリタが滞在したという痕跡《こんせき》だけだった。荷物のほとんどは官給品で、リタの私物と言えるのはコーヒーセットくらいだ。当然のことだが、ぼくへの書き置きもない。彼女はそんな感傷的なことをする人間じゃなかった。  ガラス・テーブルのマグカップの中に、真っ黒な液体が残っていた。リタが淹《い》れたコーヒーだった。  誰もいない部屋をつっきり、ぼくは、マグカップを手にとった。  コーヒーは、黒く、澱《よど》んで、室温とまったく同じように冷たくなっていた。ぼくの手の震えを感じとり、漆黒《しっこく》の水面がさざなみをつくりだしている。  こうやってきみも孤独を噛みしめていたのだろう。  いまならわかった。  きみがコマのひとつにすぎなかったように、ぼくはきみの代わりの新しいコマにすぎない。世界に必要とされるニセモノの英雄にすぎない。世界というやつは、血と煙にまみれたクソったれな戦場をぼくに押しつけるだけだ。でも、そんな世界のことをきみは嫌いじゃなかった。  だから、ぼくは負けない。  そう決めた。  エネルギーの切れかけたジャケットにタングステンカーバイドのバトルアクス一本で敵の真ん中に叩きこまれてもぼくは勝つ。どれほど歴戦の兵が経験した数より多い修羅場《しゅらば》をキリヤ・ケイジは潜《くぐ》りぬけてきた。どのタイミングでトリガをしぼれば生き残り、どのタイミングでその一歩を踏みだせば死んでしまうか、ぼくの体は知りつくしている。目をつむっていたってギタイなんかの弾丸はぼくのジャケットをかすりもしない。  ぼくがいるかぎり人類は負けない。きみと約束しよう。たとえ何十年という月日がかかろうと。この戦いは、人類の勝利で終わらせる。  でも、その人類の中に、リタ・ヴラタスキはいないのだ。  たったひとり、守りたかった女性《ひと》はいないのだ。  生《なま》あたたかい液体があふれそうになる瞳を、ぼくは、ヒビ割れだらけになったガラス窓越しの空を見上げてこらえた。  涙を流すことはしない。これから死んでいくだろう戦友のために。これからもきっと助けられない大切な人々のために。きみへの涙は、すべての戦いが終わってから流すことにする。  歪《ゆが》む視界に、ぽっかりと雲が浮かんでいるのが見えた。吸いこまれそうな空の色ってのはこういうクソったれなブルーのことを言うのかもしれない。乾ききったスポンジが水を吸うように、どこまでも澄んだせつない青が体の中に染《し》みこんでくる。  孤独が嫌いなきみが兵舎から離れてひとりで寝起きしたのは、死にゆく戦友の顔を見るのがつらかったからだ。長く苛酷《かこく》な戦闘にさらされ、すっかり見えなくなっていたけれど、きみの瞳には戦友に対する深い思いやりがあった。誰であろうと、きみは死んで欲しくなかったのだ。  赤はきみの色だから、きみだけの色だから、もう帰ってこないきみのためにとっておくことにする。  ぼくのジャケットは青に塗ろう。はじめて会ったとき、きみが好きだと言った空の色にしよう。百万の軍勢の中からでも一瞬で見分けられる、すべての攻撃が集中し、すべての敵の目標となる、目が醒《さ》めるようなブルーにしよう。  出会ったばかりのあの人がいれてくれた最後のコーヒーを、なつかしさと悲しさを同時にもたらす香りを、青緑色をしたカビのコロニーが浮かんだ液体を、ぼくは、そっと飲みほした。 [#改ページ]    あとがき  ゲームが好きです。ハナタレの子供の頃からやっていました。それなりに上達したゲームもいくつかありました。  だけれど。数多くの困難を乗り越えスーパーハードモードをクリアしても、うち震えるような感動は湧《わ》いてきません。泣きでも萌《も》えでも、ガッツポーズで跳《と》びはねる喜びでもない、氷のように冷たく静かな興奮《こうふん》が、胸の奥深いところで渦《うず》を巻いているのです。  あるいは、それは、興奮した自分を斜《なな》め上から見おろす感覚に近いのかもしれません。  あれだけの時間と労力をかけたんだ。できて当然じゃねえか。  わたしを見おろすわたしは言います。  そのわたしは、趣味の悪いニヤニヤ笑いを顔にへばりつかせています。その場所に到達した者だけがわかる古兵《ふるつわもの》の微笑です。  なのに、定型句しか言えない、村の長老はほざきやがるのです。 「さすがは×××どの。ゆうしゃの血を引くそなたを、わしはしんじておったぞ」  クソばかやろう。  この体には勇者の血などというものは流れていません。お願いだからほめないでください。わたしはそんなたいしたもんじゃないただの凡人《ぼんじん》なんです。それに誇りを持ってるんです。ここまで来たのは努力したからなんです。指の皮をひんむいてマメをつくったんです。偶然でも運命でもイヤボーンでもありません。必殺の一撃が出るまで何百回もリロードしたんです。この勝利は必然なんです、だから——勇者なんて言葉でかたづけないでください。  書いているあいだ、そんなことを考えたりしました。  この小説は、多くのかたの力が結集して世に出ることができました。人がバタバタ死ぬ暗い話ですけれど、けっこう、幸せな作品かもしれないと思います。  作品世界をイラストとして見事に結実させてくださった安倍《あべ》|吉[#土/口]俊《よしとし》氏、西に東に駆けずり回ってくださった編集長、松本《まつもと》みゆき氏、素晴らしいデザインをしてくださったアフターグロウの山崎《やまざき》剛《たけし》氏、軍事関係のチェックをしてくださった増田《ますだ》淳《じゅん》氏と軍事のゆかいな仲間たち、そして、推薦の言葉をくださった神林《かんばやし》長平《ちょうへい》先生。ありがとうございました。  そうそう。ひとつ忘れてました。  全国のよいこのみんな、真っ黒な電波をゆんゆん投射してくれてありがとう。 [#地付き]桜坂洋 [#改ページ] 底本:「ALL YOU NEED IS KILL」スーパーダッシュ文庫、集英社    2004(平成16)年12月30日第1刷発行 入力:iW 校正:iW 2007年9月29日作成